正しい彼の落とし方 その11




一晩だけでは足りなくて、週末を丸ごと悩んでしまった。
けれどもはっきりとした答えは出ない。
だって、恋愛は1人でするものじゃないからだ。
主任に片思いしている間、その恋は私1人のものだ。
けれども、そこに主任の気持ちが入ってきて、
単位が私1人から主任と私の2人になれば、
私1人では解決できないことになる。
主任が彼女さんと別れて私を選んでくれたとして、
私を彼女さん以上に愛してくれるのならば、
例え『略奪者』や『裏切り者』呼ばわりされても、耐えて行けそうに思える。
先ずは、主任の気持ちを知ることが大切だ。
誘ってくれたのは、どうしてなのか。
確かめなくてはならないと、私は思った。



月曜日。
出来た書類の提出時に、デスクの前で小声で話しかける。
「主任、せっかく誘ってくださったのに、先日は大変失礼しました。」
課内の人の目から見れば、きっと私が主任にしかられているように見えるはず。
深く礼をして謝罪の言葉を口にする。
「気にしなくていいよ。
逃げられたのは、少しショックだったけどね。」
「すいません。
突然だったので、動揺しちゃって・・・。」
ちょっと苦しい言い訳をしてみる。
「別に飲みに行く必要なんて無いんだ。
ただ、佐々木君と話がしたかっただけだから、
もし良かったら今夜夕食でも一緒にどうかな?」
私の早とちりだったかもしれない。
そう思った。
「じゃ、お言葉に甘えて、ご一緒させて頂きます。」
とにかく話をしないと始まらない。
主任がどうしたいのか話を聞こう。
そして、私の気持ちも素直に話そう。
主任が好きなんだと、出来れば私を選んで付き合って欲しいと。



人間、決意が固まれば行動は早い。
その夜の夕食は前回行った多国籍料理店。
知った場所の方が話しやすいかと思ったのと、
この店は予約を入れれば個室が取れるからだ。
ルームチャージは4畳半程度の部屋が2時間で2千円とそれほど高くない。
平日と言うこともあり、午前中の電話で楽に抑えることが出来た。
店員以外は入ってこないから、話の邪魔をされることは少ない。
主任と密室に2人という状態になったことはないから、
自分がどんな風に感じるのか、それにも興味がわいた。
前回と同じ本屋で待ち合わせをして、店に向かう。
主任はどう行動するのか・・・。
私は全てに受身の態度をとりながら、注意深く様子を見る。
本屋を出たところで、主任が振り返った。
「今日の靴じゃ心配だから、つかまって。」
視線で私のピンヒールを指し示して、左腕のひじを差し出した。
少しでも女らしいと思われたくて履いた靴を、
主任は心配してくれたらしい。
そのスマートな誘い方に、素直に右手で答えた。



料理のオーダーが終わって、飲み物が来るまでの短い時間。
何処となく話を切り出せなくて、ぎこちない空気。
お絞りのタオルを何度もたたんだり広げたりしてみる。
どんな話をされるのか、それが分からないだけに落ち着かない。
早く飲み物がこないかな・・・そんな事を考えた。
軽い引き戸の音と共に「失礼致します。」と店員さんが入ってきた。
トレーに乗せていたものを、手際よくテーブルに並べると、
お辞儀をして出て行った。
ビールを注ごうとビンに手を伸ばせば、一瞬主任の方が早かった。
「私が・・・。」
「いや、僕が誘ったんだし。さあ。」
と言われてしまえば、そこは上司の押しの強さ。
「ありがとうございます。」と、グラスを取って注いでもらう。
すぐにビンを貰って、私も主任のグラスに注いだ。
「じゃ、1週間がんばりましょう、という事で。」
「はい。」
カチンとグラスを軽く合わせて、プチプチとはじける泡を口にする。
半分ほどになった主任のグラスにすぐに注ぐと、
「ありがとう。」と笑顔を貰った。
「じゃ、食べようか。」
取り皿と箸を手に、並べられた料理に手を付ける。



あの話以外なら話題は豊富にあるから、食事中の会話には困らない。
主任だったら多分食事中には切り出さないと考えて、
軽くて楽しい話を口にする。
その内にいつもの私になったような気がする。
それに、例え振られたとしても、それはそれで仕方が無いことだと、
昨夜までに覚悟はしておいたから、大丈夫。
オーダーした料理が全て運ばれてきて、
呼ばなければ誰も来ない状況になった。
主任が手にしていた箸を置いて、私をまっすぐに見た。
今までの雰囲気とは違う感じがして、私も口の中の物を飲み込み、
箸を置いて主任を見た。
「この間は、突然誘ってすまなかった。
逃げられたのは、少なからずショックだったよ。
佐々木君には、好かれていると思ってたし。
けれど、逃げて行った君の背中を見て、今の自分の状況が
そうさせてしまったんだと、反省したんだ。」
「いいえ・・・。」
続ける言葉がうまく見つからない。
ただ俯いて首を何度も横に振った。



「僕と彼女は大学の同期でね。
付き合い始めたのは会社に入って暫く経ってからの同窓会が切欠だったかな。
大学時代からこっち友人時代が長かったせいか、
僕はどうしても同志やライバルという思いのほうが強かったんだ。
彼女と居ても話すのは仕事のことや上司のことばかりで、
恋人の会話には程遠かったな。
恋人らしい甘い雰囲気にはならなくてね。
彼女もいつも僕より仕事優先で、デートのキャンセルは彼女の方が多かった位で、
恋人なんてつながりは解消した方がいいだろうと、
もう半年以上前に別れているんだ。
どちらかと言えば振られたのは僕の方かもしれないな。
彼女も『一緒に居ても私たちじゃ夫婦にはなれないわね。』ってね。
けれど、お互い嫌いになったわけでもないし、他に誰かいるわけじゃないから、
つい誘って飲んだりしてね。
恋人をやめてからの方が、友達として気楽に飲めてよかったんだ。
だから、彼女との事を会社のみんなが誤解するのも放っておいた。
何かと言い寄られるのも迷惑だったし。
彼女はね、通っていた外国語の教室の講師と恋に落ちてね。
先日結婚してアメリカに渡ったよ。
結婚式にも呼ばれてね、ご祝儀をたっぷり取られたさ。」
主任のお言葉に、「本当ですか?」と顔を上げた。



「うん、本当だよ。
だからね、佐々木君の・・・いや、ちゃんって呼ばせてもらうかな。
ちゃんの気持ちは少しも迷惑じゃないんだ。
むしろとてもうれしいくらいで、もし良かったら僕とお付き合いをして欲しい。
そう思って誘われてみたし、誘っても見たんだけれど、
なんだか一線引いている感じで踏み込んでくれないし、
ちゃんも踏み込ませてくれないし。
しかも逃げられた日には、ちょっと落ち込んだよ。」
主任は明るく笑って、グラスのビールを一気に飲み干した。
注ぎ足そうとビンに手を伸ばしてみたけれど、
途中で手首が主任につかまってしまった。
「華奢な腕だね。
あの夜もこの間の夜も、この手に触ってみたかった。
どうして触れなかったかと考えて、
出た答えが僕には彼女が居ることになっていたんだったと、思い至ってね。
他の誰かには誤解されたっていいけれど、
ちゃんにはそう思われたくないって・・・。
じゃあ、ちゃんと説明させてもらおうと思って。
で、今日があるわけだ。」
テーブルの上に着地した主任と私の手は、そのままつながれている。
「可愛い部下がだんだん女に見えてくる。
僕をひきつけて離さなくなって、その笑顔や身体を誰にも渡したくないと
思い始めたんだ。
その部下だってまんざらでもない様子で、希望が見えた。
だけど彼女は見えない壁を築いていて、その核心には容易に触らせてくれない。
だったら、こうして僕が壁を乗り越えて行くしかないってね。
ちゃん・・・。」
つかまれた手首が放され、今度は手がそのまま主任の両手に包まれてしまった。
逃げることが出来ない。



少しの間、部屋には沈黙が落ちた。
スピーカーからは軽い音楽が小さい音で流れている。
この店にあったオリエンタルな調べは、楽しい雰囲気のものだ。
今までそんなことに気づかなかったのに、やけにその音が大きく感じた。





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2006.05.24up