正しい彼の落とし方 その12




どうしよう。
あれほど望んだ展開なのに、先ず浮かんだことはそんな言葉だった。
今、私の手は主任の両手にしっかりと包み込まれている。
大きくて、温かい手だ。
それは、私が望んだ場所。
でも、少し前まではその場所は他の誰かのものだと思い込んでいて、
私には到底与えられない場所だと思っていた。
だからこそ、その場所が欲しかった。
与えられないと知っていても望んでしまう玩具のように、
手に入らないと思うからこそ、より望みが大きくなるように。
そんな場所だったはずだ。
ところが、実際は誰のものでもなくて、望めばそして望まれれば
私のものになると・・・。



どうしよう。
次にどうすればいいのか分からない。
主任の事を好きだと伝える決心をして今夜を迎えた。
こちらから攻めて口説こうと思っていた。
まさか、主任からそうされるとは思わなかった。
だから、どうしたらいいのか分からない。
このまま流れに身を任せてもいいの?
戸惑ってしまう。
ちゃん、逃げないで。
今度逃げられたら、いくら僕でも追う自信が無くなりそうだから。
・・・待ってたんだ。
ちゃんが『好きです。』って言ってくれるのを。
けれど、僕が今まで噂を放置していたせいで、
ちゃんは居もしない彼女を気にするあまり、
告白してはくれない様子になってきたし、
前島君も前に1度だけれど一緒に居た時に会ったことがあって、
何度か電話も取り次いでくれたことがあったんだ。
彼女の性格からいって、いいことは言われていないだろうと分かってたんだけど、
何も言われていないのに否定するのもおかしいと思って・・・。
このままの受身で居ては、ちゃんはきっと僕をあきらめてしまう。
それだけは何とかしないと、と、思ったんだ。」
主任の顔を見上げれば、何処か寂しそうで泣きそうな顔。
そんなに真剣に、私の事を思ってくれているのだろうか?
応えてしまおうか、主任の思いに・・・。



「主任。」
「ん?主任じゃなくて、名前で呼んでくれないかな。
『孝弘』ってさ。」
「本当にいいんですか?」
「ん、本当にいいんですよ。」
にっこりと笑顔で言ってくれたその言葉に、肩に入っていた力を抜いた。
「うん、そうそう、力は抜いてね。
肩肘張らなくっていいんだ。
その方がちゃんらしいし、僕もうれしいから。」
包まれた手をポンポンと優しく叩いて、私の緊張をほぐそうとしてくれる。
「じゃあ、主任・・・孝弘さんは、今は誰ともお付き合いをしていないんですか?」
「そうだね。」
「私、略奪女にならなくてもいいんですね?
浮気相手でもなくて、2番目でもなくて、本命になれるんですよね?」
私の質問に、主任は少し困ったような顔をして、
「そうか、そういうこと思っていたんだ、ちゃんは。
居もしない彼女の事を僕が考えていたよりも重く受け止めてくれていたんだね。
いや、悪い事をしてしまったな。」
孝弘さんはそう言った。
「いつまでも恋人になれなかったのは、僕が原因だったのか。
ちょっと、凹むな。」
まるで苦い薬を飲んだのに、無理して笑ったような顔をして、
私を包んでいた両手を解くと、手を自分の前に戻した。



「返事をくれないか。」
まっすぐに見つめてくる眼差しに、急に恥ずかしさを覚える。
それでも、此処は目を逸らしてはいけないんだと、私も孝弘さんを見つめ返した。
「はい、私でよかったら孝弘さんの恋人にして下さい。」
この瞬間をどれほど望んだことだろう。
約半年に渡った主任を落とす作戦は、
なんだか見当違いな方向に向いていたらしいけれど、
結果よければ全てOKだ。
明日は京子さんにうれしい報告ができる。
鼻の奥がつんとして、目頭に涙が溜まる。
それにつられる様にして、後から涙がわいて来た。
目の前に再度差し出された大きい両手に、私の片方ずつ手を差し出す。
そのまま2人して立ち上がってテーブルの横に出ると、
孝弘さんはつないだ両手をそのまま引き寄せた。
目の前にスーツの生地しか見えなくなった。
彼の使っているコロンがわずかに香って鼻腔をくすぐる。
孝弘さんの両手は私の手を離して、今は私の背中に置かれている。
そして、私を孝弘さんに押し付ける役目を、
彼の意思によって忠実に実行している。



「あぁ、今日が金曜日だったらなぁ。」
ひどく残念そうな声が、彼の胸につけた耳にその身体を通して
少しくぐもったように聞こえた。
どうして曜日が関係あるのか?
それが分からなくて、顔を上げて孝弘さんを見た。
「ん?
だってさ、今日はこのままちゃんを帰さないといけないだろ?
金曜日までには4日もあるからね。
我慢できるかな・・・・。」
なんだか孝弘さんが言っている意味が良く分からない。
これからホテルに行くとしても、明日の仕事には差しさわりが無い位の時間には
アパートへ帰れるだろうと思う。
少しは疲れが残るだろうが、仕事が出来ないほどではない。
「だってさ、もし今夜これからちゃんを抱いたら、
朝まで止まらない自信があるよ。
実際、女の人は随分ご無沙汰だし。
僕は構わないけれど、ちゃんは朝起きられないと思うんだ。
だから、金曜までは我慢しないと・・・・。」
もし、孝弘さんに耳か尻尾があったら、楽しいことになっているに違いない。
そう思わせるほど、しょんぼりとうなだれている。
年上の男の人なのに、なんだか可愛いと思ってしまった。



「毎日でも少しずつと言うのは・・・・駄目ですか?
アパートも近いですから、帰りに私のところへ寄るか、
孝弘さんのところへ寄って、それからどちらかの家に行っても・・・。
近いから、毎晩会っても移動には困りませんから・・・。
ただ、夜道は少し怖いので、送ってだけもらえたら・・・」
「そんなの無理だよ。
一緒に居たら帰せないよ。
いや、この場合は、放さないの間違いだな。
今だって、キスをしたいのを我慢しているんだよ。
・・・でも、金曜まで我慢するよりはいいかな。
じゃ、ご飯を食べて、急いで帰ろう。」
抱擁を解いて私を椅子に座らせると、取り皿にいそいそと料理を盛りつけ
それを私の目の前に置いてくれた。
孝弘さんは自分の皿にも盛大に盛り付けて、
物凄くお腹がすいているように食べ始めた。
「そんなに急がなくても・・・。」
「いや、急がないと。
夜は思ったより短いよ。
さあ、ちゃんも食べて。」
彼の勢いに押されて、私も料理を口に運ぶ。
それでも、孝弘さんのようには食べられなくて、困ってしまった。



何とかお腹をいっぱいにして、2人して最寄の駅に降り立った。
「さて、どっちを先にするかな?」
手をあごに当ててどちらの部屋に先に行こうかと、悩んでいる風の
孝弘さんを見上げる。
「冷蔵庫に食料は?」
「ん?うん、ないと思う。」
本当に彼女の居ない一人暮らしなんだと、そんなところがうれしい。
「じゃ、先に孝弘さんのところへ行きましょう。」
「姫の仰せのままに。」
仰々しく礼をとった彼と一緒に歩く。
こんな日を夢見てきた。
誰に何をはばかることなく、2人して手をつないで歩く道。
彼の部屋で、翌日の着替えとお泊りの用意をして、私のところへ向かった。



階段を上ってドアの鍵を開ける。
「狭い部屋ですが、どうぞ。」
先にと思って場を譲る。
どうぞ、と案内した手の手首をつかまれて、部屋に引っ張り込まれた。
「なにを・・・」
抗議しようとした言葉は、すぐにふさがれた。
驚いて開いたままのそこから温かく湿った何かが入って来た。
私の口の中を自由に動き、舌をもてあそばれる。
キスされているんだと、脳が理解する前に溶かされそうだ。
膝ががくがくして力が入らなくなる。
このまま少しでも離されてしまったら、きっとこの場に崩れ落ちてしまうだろう。
そんな事を朦朧としてきた頭で考える。
初めてと言うわけじゃない。
この年になれば、経験があっても不思議じゃないし。
けれども、最初からこんなに分からなくされるのは、今までに無い経験だ。
こんな私をどう思われるだろう。
孝弘さんが初めてだと思ってしていたら、後からがっかりされてしまうかもしれない。
ちゃんと言って置かないと、それだけを何とか言葉にしたいと思った。
そうこうしていたら、息継ぎのためだろうか、少し唇が離れた。
「わ、私、こういうこと初めてじゃ・・・」
「ん?そうなんだ。
奇遇だねぇ。僕も初めてじゃないんだ。
気が合うんだね、僕たち。」
そうにっこりと孝弘さんは笑うと、私をそのまま抱えあげた。
「初めてじゃないなら、2人とも楽しめるね。」
耳元でささやかれた言葉に「お手柔らかに。」と、
祈るような気持ちで返事をした。





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2006.05.31up