正しい彼の落とし方 その10




『それなら、一緒に見てあげよう。』
そんな素敵な誘い文句を投げかけてくれたのは、沢口主任だった。
私が立つ窓際へと歩み寄ると、隣で窓の向こうの夕日を眺めた。
「本当に綺麗な夕日だな。
一人で見るのは勿体無いって気持ち分かるよ。」
射し込む夕日に染まった主任の横顔を盗み見る。
まぶしさに細めた瞳が、優しそうに見える。
たっぷり3分は2人して無言だった。
夕日の下端が地平線ではなくビルの陰に触れる頃、
主任は夕日に向かったままでポツリとつぶやいた。
「佐々木君、今夜飲みに出かけないか?」
あの夜のことを忘れたわけじゃないはずなのに、
主任は何を言い出すんだろう。
私の気持ちを知っているはずなのに・・・。
少なくてもあの夜は、私の気持ちを知って意外だったはずだ。
迷惑だったはずだ。
それなのに、何で今更?
彼女との倦怠期を乗り切る為に、私の存在を利用しようと言うのだろうか?
返事に迷う。
すぐにでも承諾の言葉を返したいのを、ぐっと飲み込んだ。



「どうかな?」
誘われてしまいたい誘惑。
それでも、絶対に譲れない一線があることを、自分に確認する。
あの夜は、私が誘った。
でも、本当にお酒を一緒に飲めればよかったし、
主任に彼女さんを裏切らせるつもりはなかった。
私の気持ちを知られるまでは、楽しい夜だった。
でも、今回は違う。
主任は明らかに私の気持ちを知っていて、
その上でお酒を飲もうと誘っている。
普通に考えたら、あの夜のことを誤解されていて、
頂けるものなら頂いてしまいましょう・・・そんなところかもしれない。
隙があれば浮気をしてみたいと考えるのは、
男女問わずだし、世の常だ。
けれども、主任を私の彼氏にする為の作戦に、
ひとつだけ誓っていることがある。
『身体で主任を落とさない』ということ。
性格に相性があるのと同じように、身体にだってそれはある。
主任と彼女さんとの身体の相性よりも、
私と主任との身体の相性の方がよかった場合、
私はセックスフレンドにされる可能性だってある。
気持ちは彼女に向いていても、
肉体的相性が私との方が良かったら、
愛人や2号さんにされる事だってある。



主任がそんなことをする人だとは思っていない。
けれども、目前に置かれた甘くて美味しいお菓子を、
食べずにいるというのは無理な話だ。
空腹時の据え膳ならなおさらだ。
手を出さずにはいられない。
できることなら、先ず主任の気持ちが欲しい。
身体はその次だ。
私と主任の体の相性が、彼女さんよりも劣っているとしても、
気持ちさえあれば何とかするつもりもある。
「主任は、先日の夜のことをどう思って誘って下さっているんですか?
私の気持ちを分かっていて、それを利用するするつもりで、
誘っているんですか?
つまみ食いや遊びで抱かれるほど、私の身体も気持ちも安くないつもりです。
それにこの気持ちを馬鹿にするようなことは、
例えそれが主任でも許せませんから。」
窓辺から離れてドアに向かった。
背中に主任の視線を感じたけれど、振り向かなかった。
もしかしたら何か言っていたかもしれないけれど、
聞くことを体が拒んでいた。
幸い終業時間が間近に迫ってきている。
このまますぐに帰れば、主任と顔を合わせる必要も無い。



急いでデスクに戻ると、帰り支度をして席を離れた。
その様子にただならぬものを感じてくれたのか、
京子さんが私の後を追って女子更衣室へと来てくれた。
今の会議室での事をかいつまんで説明する。
時々頷いては聞いてくれた京子さんは、
話が終わるとニヤリと笑った。
「うん、分かった。
ちゃんは、今日のところはこのまま帰りなさい。
まあ、じらすのも作戦のうちよ。
押しても駄目なら、引いてみなってね。」
朗らかに笑って、ウィンクをひとつ。
「違うんです、京子さん。
私は沢口主任を彼女さんから奪いたいんじゃなくて、
私を好きになって欲しいんです。
だから、先ず気持ちありきなんです。」
そう言った私の頭を京子さんは、ポンポンと軽く叩いた。
「分かってる。
ちゃんは、正攻法で主任を射止めたいんだよね。
彼女と別れた主任が、ちゃんに告白してくれて、
2人は両思い・・・めでたしめでたしって。
でもさ、硬いことばっかりにこだわっていると、
時として大事なことが見えなくなるよ。
既に、ちゃんが自分を好きになってもらおうと、
色々やっていることは彼女を傷つけているだろうと思うのよ。
恋はきれいごとじゃないよ。
好きになった人がフリーで、自分を好きになってくれるなんて、
都合のいい恋はめったにないと思う。
それは奇跡と呼んでもいいと思うもん。
事実、主任には付き合っている人が居るし。
それでもあきらめないで、主任を彼氏にしたいと望んでいるのなら、
自分も汚れて悪く言われることも受け入れないと。
主任ばかりに罪を犯させるのは、どうかと思うの。
せっかく、主任がその気になって誘ってくれたなら、
最後までは行かないとしても、主任と一緒に彼女を裏切らないと。
違う?」
そう尋ねられて、何も言えない自分がいた。



目から鱗が落ちると言うのは、何かきっかけがあって、
急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになる例えだけれど、
今の私の状態がまさにそれだ。
京子さんが言うとおり、私は自分だけが切れないままでいて、
主任に彼女を裏切らせ捨てさせようとしていた。
そんな女に誰が惚れてくれるだろうか。
きっと誰もいない。
共に雨に濡れ、共に転んで泥にまみれる。
そうでなければ、本気で好きになってくれなどしない。
私が主任の立場ならそう思う。
誰が私のような考えでいる女に、本気になってくれるだろうか。
本当に好きなら彼女から恨まれようとののしられ様と、
甘んじてそれを受けなければならない。
そうでなければ、2人に絆は生まれない。
私はただの浮気相手にしか過ぎなくなってしまう。
「でも、誘われて1回目にホイホイと付いて行くのもどうかと思うからね。
だから今日は、このまま帰りなさい。
その顔だと私の話が分かってくれたんだよね?
だったら、良く考えてみて。
このまま、主任を落とそうとするのか。
悪者になりたくないから、身を引くのか。」
そう言われて、今度は肩を撫でられた。
薄いポリエステル地のブラウスを通して、京子さんの手のぬくもりが伝わった。



言われてみれば確かにそうで、私には何も返す言葉がない。
良く考えて決めないと、このままではいけないことだけは分かった。
アイドルなどに憧れるように、恋に恋しているだけならば、
主任と彼女さんの幸せを、私が壊していいはずがない。
それはあまりに勝手すぎる。
私が嫌いな女に、なってしまう様な気がする。
通勤ラッシュで混み始めた電車に揺られながらそう思った。
私は、主任を何処まで本気で好きなのだろうか?
まだ空に残っている夕日のまぶしさに思わずまぶたを閉じる。
閉じたまぶたの裏が、赤く感じる。
私の行動に自然が赤色灯を点したように感じる。
主任と一緒に彼女さんに『裏切り者』呼ばわりされてもいいのか?
私たちの恋が実ったとして、それは『略奪愛』と言われてしまう事に
耐えられるのか?
私はその恋の『略奪者』になることを、受け入れられるのか?
そして、一番大事なことは、私と主任が付き合って幸せになれるのか?
と、言うことだ。



そう、恋をして愛し合って。
私たちが幸せになれないのなら、そして幸せになる努力をできないのなら、
止めた方がいいに決まっている。
主任となら、出来るだろうか?
何度も自分に問いかけては、答えを心の中に探す。
主任をあきらめられない時点でもう答えは出ているのに・・・。





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2006.05.17up