正しい彼の落とし方 その9




とうとう言葉にしてしまった。
好きだとか、愛しているとか言う言葉は使わなくても、
私の気持ちは伝わったんじゃないかと思う。
これから向かうバーは、カップル限定ということは伝えてある。
それを前提として、『貴方とだけ行きたかった。』と言えば、
私が主任を好きな気持ちは分かってもらえただろう。
振り返った先に立っている主任の表情は、少し困ったようなものになっていた。
「沢口さん?」
歩こうとしなくなった彼に呼びかける。
私の気持ちを知って、ブレーキがかかったかもしれない。
彼女を裏切れないと主任が思うのなら、
私は潔くあきらめようと思った。
「もう今夜は止めておきましょうか。
バーへ行くのは次の機会にしましょう。
そんな顔の沢口さんとご一緒しても、楽しいお酒にはなりそうもありませんしね。」
主任の立っているところまで戻った。
「これから一緒にお酒を飲んでも、その後どうこうなろうなんて
考えてないですから、安心してください。
私は、ただご一緒に楽しいお酒が飲めればよかっただけです。
ご迷惑をお掛けしてごめんなさい。
今夜はありがとうございました。
おやすみなさい。」
軽く頭を下げて何も言わない主任に背を向けて、
駅に向かって歩き出した。
精一杯、背筋を伸ばして姿勢良く。



この人混みだものすぐに私の姿は主任の視界から見えなくなるだろう。
駅に向かう為に角を曲がる。
そこからは出来るだけ早足で歩いた。
やっぱり、私では主任の気持ちを動かせなかった。
それほどに彼女さんを愛しているのなら、それはとても素敵なことだし、
私もそれを受け入れて2人を祝福しよう。
私は、私だけをあんなふうに愛してくれる人を探せばいいじゃない。
そう自分を励ます。
今夜は運のいいことに金曜日だ。
土曜日曜の2日間の休日はたっぷり泣ける。
だから、まだ主任がいるこの街で泣いたりなんかしたくない。
目に力を入れて、何度か瞬きをして涙をやり過ごした。
切符を買って改札を抜け、自分の使う駅に着いた。
そう言えば主任の使っている駅もここだ。
そう思うと気分が滅入った。
「引っ越そうかな。」
学生時代から気に入って住んでいる街だけれど、
主任と居住圏が重なっているのは正直辛い。
同じ駅を使っていることを知った時には、
もし恋人にでもなったら取っても都合がいいなと、
勝手な想像で楽しんでいたけれど、
あきらめなければならなくなった今は、
逆に私を苦しめるひとつの要因になってしまった。



ただ泣くのは気が滅入る。
そう思って帰りがけにレンタルビデオショップに入った。
5本まとめればお安くなると言っても、普段はそんなに借りない。
それでも今日は、じっくりと見ようと泣ける話を中心にDVDを選んだ。
自分を哀れんで泣くのではなく、素敵な映画で泣かされる。
こっちの方が心に健全だ。
泣く為の言い訳なんて必要ないけれど、
出来るだけ早く立ち直って顔を上げたいから。
隣のコンビニにも入る。
お茶にお菓子におにぎりや惣菜パン。
台所に立たなくてもいいように、色々籠に放り込む。
金曜の夜に、DVDを5本も借りてコンビニで大量の買い物。
なんだか寂しい女を地で行くような行動に、我ながら笑いがこぼれる。
「なんだ、笑えるじゃない。」
今更ながらそんな自分にほっとする。
そう、このポジティブさが私らしさだ。
そんなことを思ってアパートまで歩いた。



自分の気持ちに区切りをつけたせいか、映画も思いのほか楽しめた。
お天気が良かったので、映画鑑賞の合間にお洗濯やお掃除もした。
こんな一人を楽しむ休日があっても、
それはそれでいいじゃない、と思えた。
主任のことをあきらめると言っても、嫌いになった訳じゃない。
ただ、この片思いを終わらせようと思っただけだ。
7ヶ月間は素敵な人に恋をすることが出来たんだし、無駄ではない。
お稽古事で自分のスキルを磨き、恋で女を磨く。
なんだか格好良いじゃない。



休み明けの出勤からは、結構吹っ切れていた。
主任にも普通に挨拶が出来たし、仕事にも向かえた。
さすがに応援してくれていた京子さんにだけは本当のことを伝えた。
「そっかぁ、脈なしだったか。」
「はい、そうなんです。
私の気持ちが分かった途端、ドン引きされちゃいましたよ。
でも、負けて悔いなしです。」
そう言ってお昼のお弁当のから揚げを口放り込む。
「うん、元気だしなよ。
ちゃんは可愛いから、すぐに主任よりも良い男が見つかるよ。
うちの課はもちろんだけど、他の課にもちゃんを狙ってる男がいるみたいだし。」
京子さんがウィンク付きでそんなことを言うから、
「どうしてそんなこと分かるんですか?」って、尋ねてみた。
「どうしてって・・・・。
ちゃんって鈍感なんだねぇ。
もっとも、主任しか見えてなかったから仕方がないか。
気をつけてごらん。
結構熱い視線を感じるはずだよ。」
「はぁ、京子さんがそう言うなら、気をつけてみます。」
狐につままれたような気がしないでもなかったけれど、
嘘をつかれたとも思えなかったし、もっと周りを良くみようと思った。



前の恋を忘れるには、新しい恋をするといいというけれど、
はいそうですかって訳には行かない。
それでも、ちゃんと周りを見ればこっちを見ている男の人が居ないわけではない。
男の人の目を意識して行動する後藤さんばかりが目立っているから、
私など無視し流されているのかと思っていたけれど、そうでもないか。
だから、視線が会った人にはさりげなく会釈して微笑むようにすることにした。
そうすると不思議なことに、挨拶をかけられるようになる。
”おはよう””こんにちは”に、天気の話が加わるのに時間はかからない。
すぐに社内で親しく話す男性が何人か増えた。
「なぁ、飲みに行かない?
いい店知ってるんだ。
奢らせてよ。」
そんな誘いを受けたのは、主任との夜から1ヶ月過ぎた頃のこと。
お稽古事はまだ続けているから、平日の夜はほとんど無理だ。
それを理由に断り続ける。
秋はお稽古事の発表会が目白押しで、週末も忙しい。
だから、お酒の席はちょっと控えないと。
決して嘘はついていない。
お付き合いのために時間を作ろうとすれば、できない事はない。
でも、しないだけ。



まだ、その時ではないと思う。
もう少し時間が欲しい。
主任との夜を忘れる時間を。
本当は忘れることなんてしたくないし、出来ないと思う。
だけど、忘れた振りで自分をだます事さえ今の私には辛い。



そんな日々を送っている内に、涼しかった風は冷たい冬のものへと変わっていた。
11月の声を聞くと、世の中はすぐに年末に向けた装飾になる。
でも、今年は赤や緑のリボンを見ても心が躍らない。
もう、1人で過ごすと決めているからかもしれない。
あれから何度か誘われるままに一緒に食事に出かけた人が何人かいる。
けれどみんな1回だけ。
2回目は断ってしまった。
いけないことだと分かっているけれど、どうしても主任と比べてしまう。
こんな事をしては相手に失礼だと、思い始めたのは3人目くらいだろうか。
5人目を最後にそれ以来は誰の誘いも受けていない。
この秋には結婚しなかった2人だけれど、
次の春には決定的な証拠を見せて欲しいと願っている。
そうでなければ、あきらめきれない。
女子職員の場合、転勤や移動はあまりないことだ。
会社を辞める以外に、主任が見えない所に行ける方法はない。
けれどもやっとで就職した会社。
1年未満で辞めるわけには行かない。
ジレンマに苦しむ日々。



会議室の後片付けをしながら、窓いっぱいに射し込む夕日を眺めた。
「綺麗だな。」
すっと窓際へと寄った。
「一人で見るには、綺麗過ぎるなぁ。
逆に寂しくなっちゃう。」
綺麗なオレンジ色が涙でにじみそうになる。
「それなら、一緒に見てあげよう。」
背後から思いもかけない人物の声がした。





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2006.04.26up