正しい彼の落とし方 その8
暑くもなく寒くもない、そしてお天気がいい夜。
最初で最後かもしれない、主任と私のデートの夜。
私は小さいフリルとレースで飾られたアイスブルーのキャミソールの上に
シンプルなアイボリーの七分袖のカーデガンを着た。
カーデガンの胸元から中のキャミソールが覗いている。
スカートは同じアイスブルーのシフォンを何枚も重ねたAラインのミディ寸。
私の動きに合わせて、可愛く揺れる。
着る色はその人に精神的な影響を与えるという。
それを頭から信じているわけではないけれど、
今夜の私はピンクという気分ではなかった。
フェミニンな格好をしても、何処かクールな気持ちでいたい。
主任との待ち合わせは、目的の駅前にある大きい本屋さん。
会社から出るのを一緒にすると、人目に立ちやすい。
だから時間差を置いて退社することにした。
本屋さんにしたのは、外で待ち合わせて、
何かの勧誘やナンパに煩わされたくなかったし、
どうせ私の方が待ち合わせ場所に早く行くはずだから。
待つのに困らない場所をと選んだ。
本屋さんと言っても結構大きいそこは、コーナーもたくさんある。
どの書籍のコーナーで主任を待とうか考える。
ぐるりと店内を回った後で、人も少なくて好感を持ってもらえそうな場所、
料理本とその雑誌のコーナーに立つことにした。
通っている料理教室では、和風の煮物を習っている。
だから手にした本もそれに関した雑誌の特集だ。
美味しそうな写真とその解説を目にしてページをめくって行く。
その料理の手順から煮方までを黙読する。
振りをしていると言った方がいいかも知れない。
後ろを人が通る度にそれが気になって仕方がない。
まだ待ち合わせの時間までには少しあるから、
今からそんなに緊張していては精神的にきついというのに・・・。
開いたページをもう一度最初から目を通す。
次のページに手をかけた。
「待たせてしまったかな。」
ページをめくる前に私に話しかけた人がいた。
他でもないその声は主任。
「いいえ、今来たところです。」
相手に気遣わせない為の常套句を言う。
「それよりすぐに分かりましたか?
私ったら本に夢中になってましたから。」
本当はそんなこと全然ないのに、そんな言葉を続ける。
「大丈夫、すぐに分かったよ。」
このコーナーは本屋でも端の方にある。
決してすぐに目立つ場所じゃないとは思いつつ、笑顔でそう言ってくれた主任。
やっぱり優しい人だなって、改めて思った。
「じゃ、行こうか。」
「はい、そうですね。
目的のお店は、軽食はありますが食事をするという感じではないんです。
少し食べてから行きませんか?」
食事が目的ではなかったけれど、夕食にちょうど良い時間だ。
誘うのは当然だと思ったし、最初からそのつもりだった。
「いいね、そうしよう。
お勧めの店はある?」
「あっ、はい。こっちです。」
本屋から少し歩いたところにある、多国籍料理のお店に向かう。
メインはアジア風だけれど、イタリアンからフレンチまで扱っているから、
初めての人と行っても外さない。
金曜日と言うことで少し混んではいたけれど、
客席数が多い店だからすぐに通された。
全体的には少し落とされた照明。
テーブルの上のペンダント・ライトが、スポットのようにテーブルの上の
料理や手元を照らす。
各客席もアジア風の衝立のようなもので目隠しがあるので、
落ち着いて会話や食事ができるようになっている。
2人用の席に通されると、すぐにメニューを広げて主任の前に置いた。
「このお店は、一応多国籍なんで何でもあります。
私のお勧めは、この海老の生春巻きとマグロのカルパッチョです。」
メニューの写真を指差して、自分の好きな料理を示した。
何でもいいとか、お任せとか、そんな事は言わない。
個人的に初めて食事を一緒にするのに、任せられても主任も困ると思う。
それに私の好きなものも知ってもらいたいし、
私がこう切り出せば主任も好みを口に出しやすい。
「ん、美味しそうだね。
じゃ、僕はこっちのほうれん草のキッシュとサーモンのマリネを。
で、先ずはビールだね。
佐々木君もビールでいいかな。」
「はい。」
最初のオーダーを決めたところで、スタッフを呼ぶベルを押した。
主任がメニューを見ながらオーダーするのを見守る。
確かにここへは私が案内したけれど、
リーダーシップは主任にゆだねる。
オーダーが終わってお互いお絞りで手を拭くためにタオルに手を伸ばした。
「なんだかメニューを見たせいか、お腹がすいてきましたね。
男の人は酸っぱいものが苦手な人が多いのに、
マリネをオーダーされたのでちょっと意外でした。
父なんて三杯酢も駄目な人なんです。」
他の男の人と言っても、具体例は父親を出す。
過去彼はもちろん他の男の人の影はちらつかせない。
「俺もそうだなぁ。
けど、日本食の酢の物と違ってマリネは、酸いだけじゃないからね。」
「そうですね。」
お絞りをたたんで手元に置くと、まもなくビールとマリネやカルパッチョが
運ばれてきて並べられた。
加熱の要らないおつまみは早い。
「主任、ここからはプライベートということでお願いしますね。」
「もちろん、こちらこそお手柔らかに頼むよ。」
「だったら、せっかくですから『佐々木君』と『主任』というのを、
今夜だけでもやめません。
上司と飲むより、男友達の方が美味しいですし。」
「いいね。
じゃ、ちゃんでいいのかな。
乾杯しよう。」
「じゃ私は沢口さんで。」
グラスを合わせるカチンと言う音とともに、顔を見合わせてにっこりと笑う。
ここで恋人気分で飲みたいなんて言葉は使わない。
私だけがそのつもりでいればいいと思うから。
主任にとっては、女友達程度に思ってもらえるだけでいい。
美味しい肴とお酒があって職場も同じなんだから、話題には事欠かない。
それこそ、こんなチャンスはまたとないことだから、
主任の好みをリサーチする。
好きな歌や歌手。
応援している野球チームの名前。
好んで見ているテレビ番組。
でも、決して尋ねないこともある。
それは休日の過ごし方。
一番気になっていることだけれど、そこを尋ねたら彼女さんの話題に触れる。
主任の口から彼女さんとの休日の様子など聞きたくない。
その存在を無視するわけにはいかないけれど、今は目を瞑ろうと思った。
軽く腹ごしらえをして目的のバーに向かう。
隣に並んで歩いても、決して触れないように注意する。
媚びているとは思われたくない。
安売りもしたくない。
寂しい女が、一夜の恋人を求めて誘ったとは思われたくないから。
今夜は楽しくお酒が飲めればそれでいいのだ。
主任だって、そう思っていると思う。
そう注意して歩いていたのに、すれ違った人と軽くぶつかって
主任側へとちょっとふらついた。
「っと、危ないな。ちゃん、大丈夫か。
この人ごみじゃ、ぶつかるなと言ってもしょうがないけど。
良かったら、つかまりなさい。」
そう言って主任は軽くひじを差し出してくれた。
「すいません。ありがとうございます。
でも。誰かに見られたら誤解を受けるような真似は、止めておきます。
私たちがどう言っても噂になると思うし、
沢口さんの彼女に悪いです。」
「気にしなくても、いいよ。」
優しく微笑んでくれた主任だけれど、私はもう一度首を横に振った。
「こうして、彼女がいる男性をお酒に誘うのも良くないという自覚があるんです。
でも、これから行くお店には、どうしても沢口さんと一緒に行きたくって・・・。
他の誰かじゃ嫌だったんです。
だから、無理を言って私のわがままに付き合っていただいたんです。
だから、けじめだけはつけさせて下さい。
お気持ちだけ、頂戴します。」
そのまま数歩前に進んで主任を振り返った。
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2006.04.19up
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