No.69 片足
ギシッと腰掛けている椅子が体重の移動に伴って鳴った。
この椅子を譲ってくれた2歳年上の隣に住む幼馴染は、
ベッドに腰をかけて活字を追うのに忙しい。
他に頼める人が居ないのだからと、切羽詰った気持ちで部屋まで来たのだ。
このまま帰る訳には行かない。
「八戒。」と、は本を読む眉目秀麗な男に呼びかけた。
思えば、八戒が大学に入ってからはそれまでの兄妹のような付き合いから比べると、
幾分疎遠になったように思う。
それでも 道で会えば言葉を交わしたし 時には家族ぐるみで食事を取ったりしている。
なにも 頼み事をするのに緊張する必要など無い。
これまでにもは八戒に何度となく頼み事をしてきた。
体育祭で着る学生服を貸してくれとか、夏休みの宿題を手伝って欲しいとか、
家庭科で作るセーターの採寸をさせて欲しいとか・・・。
それこそ数えだしたらきりが無い。
それは全て彼氏が居れば間違いなくその人に頼むような事ばかりだった。
男女共学の中学と高校に通っていたは、別にもてないわけではなかった。
それでも どうしてもその気になれずに現在に至っている。
友人の中には『イベントの時だけの限定の彼氏でもいいのに・・・』と、
自分の彼氏の友達を紹介してくれようとする子もいたけれど、
はそれらを断っていた。
そして 窮地に陥ると必ず八戒の所へ尋ねては、頼み事をすることになるのだ。
黙読していた本から目を上げてを見た八戒は、
「今度はどんな頼み事ですか?」と、尋ねた。
いつもなら ドアを開けると同時に頼み事を口にして、『うん』と言うまで押し切るが
珍しくその頼み事を口にするのを戸惑っている。
今までに無かった事だけに、八戒としてはその内容が気になった。
「そんなに言いにくい事ですか?
、これだけ長い付き合いなんですから、なにも驚いたりしませんよ。
僕で出来ることは今までも手伝ってあげてきたじゃないですか。」
開いていた本にしおりを挟んで閉じるとベッドの枕許に置いて、
八戒はの話を聞く体勢を取った。
我ながらこの2歳年下の隣にすむ幼馴染には甘いと思う。
いつも持ち込む願い事はたいてい何とかしてやってしまう。
が保育園のバスに乗るときに手を貸してやってからの腐れ縁だ。
今更、どうしようとも思わない。
確かに最近はこうして何かを頼みに来る事は少なくなった。
それは 自分が手を貸さなくてもが何とかできるだけの大人になった証拠だろう。
それとも 他に頼める相手が出来たということだろうか・・・・と、八戒は寂しく思っていた。
久し振りに自室を訪ねてきたは、もう 少女とは呼べないような雰囲気があって
少なからず驚いた八戒だった。
をいつまでも可愛い妹のようなイメージで捉えていた八戒だが、
そうも言っていられないと 脳内修正をしようと思ったくらいだ。
男女の結婚適齢期のずれを考えると、のほうが早く結婚する可能性もある。
彼女の方が先に自分から離れていくのかもしれない。
そう考えたら、いつまでも此処に来た理由を話さないに、
その頼み事を出来るだけ叶えてあげようと思う八戒だった。
質問に俯いていたが顔を上げて気まずそうに話を切り出した。
「あのね、今度の日曜に私の彼氏の振りをして欲しいんだ。」
その頼み事は、今までに無かった種類のものだった。
「彼氏の振りですか?」
思わず聞き返してしまう。
「うん、駄目かな?」
上目遣いで見上げられると断るに断れない。
それでも 何かしらの理由が在るはずだと思い気を取り直して尋ねてみる事にした。
「どうしたんですか、こんな頼み事は初めてですよね。
何か理由が在るんでしょう?」
言い辛そうにしていた原因が分ったが、その内容に少し疑問もあった。
いままでのの頼み事と言えば、誰でもいいが男の人とか自分よりも
勉強が出来る人とかいった具合で、自分が限定と言う訳でもなかった。
だからこそ 気安さから自分を頼ってきたのだろうと察する事が出来た。
だけども今回の頼み事は、そうでは無いというのは言われずとも分る。
気安く誰かに頼めるような内容ではない。
もし その気も無いのに頼んだ事で、
思わせぶりな態度と受け取られかねないような内容だ。
別の意味で言えば、普段は言えないような相手でもこれをきっかけにも出来る。
だからこそ なぜ自分に声をかけてきたのかを知りたいと思う八戒だった。
「実はね、今度の日曜にカップルで行くと半額になるという遊園地があってね。
みんなで行こうと言う事になったの。
仲がいい友達が2人いるんだけど、『は?』って尋ねられて、
思わず『じゃあ 私も彼氏連れてくるね。』って言っちゃったの。
だけど 、私には彼氏が居ないし・・・・・、でも 言った手前、一人で行くのは嫌なんだもん。
こんな事、他の誰にも頼めないよ。
八戒・・・・お願い。」
話していてその内容に自分で辛くなったのか潤んだ目でこちらを見るに、
既に返事を決めていたものの八戒は大きく溜息を吐いて
『しょうがない』と言うように頷いて見せた。
「ホント? 本当に一緒に行ってくれるの?」
自分から頼んだくせに、受けてもらえるとは思っていなかったのかは何度も念を押す。
「えぇ、行ってあげます。
なんです? そんなに断って欲しかったんですか?
それなら・・・・」
「断って欲しくない。一緒に行って欲しいです。」
は、八戒が『やっぱり行くのは止めましょうか。』と
言葉を続ける前に、慌ててそれを遮った。
その様子ににっこりと笑うと、「は素直なのが一番ですよ。」と、
八戒はいまどき珍しく色のついていない綺麗な髪に手を伸ばして撫でてやる。
大人しく頭を撫でられながら「八戒ってばいっつも私のこと子ども扱いするんだから・・・。」と、
両頬を少し膨らませて唇を突き出して拗ねてみせる。
「仕方が無いでしょう。
僕に頼みに来るのは、子供だからこその願いばかりじゃないですか?
そんな事を言うのなら、もっと大人の頼み事をしてみたらどうです?
そうですねぇ、例えば・・・・・・。」
に笑いかけながら八戒は例を挙げようとして考えた。
「例えば、何?」
わくわくしながら待っているその顔が子供のようですよ等と言ったら、
今以上に拗ねてしまうのは分っている。
そんなところものことを可愛らしく見せているのだと、八戒は改めて思った。
手に触れている髪の心地良い感触。
空気が抜けて元に戻った頬は、薄く色付いていてすべらかそうだ。
そこに淡く影を落とす綺麗に生え揃っているまつげ。
すっと真っ直ぐな鼻筋の下に、色付けられている柔らかそうで甘そうな唇。
何よりも雄弁にその心の中を伝えてくる瞳には、今は自分が映り込んでいる。
八戒の頭の中に例として浮かんだ事は、
彼氏との喧嘩の相談やその心を確かめるための方法だった。
それを口にしようとして、ふとあることに気が着いた。
何故、の彼氏が自分ではないのか?
どうして その彼氏としての自分を考えないのだろう?と。
もし、が他の男性と交際したり結婚したりすれば、その相談を受けることはあっても
それはあくまでもうまく行っていないと言う前提のもとに限られている。
つまり、彼氏と仲がいいときには思い出しもされないだろうし、
に必要ともされなくなる。
近年、少し疎遠になっているのは が自分から離れていっている証拠なのだ。
いまは ステディな関係の男性が居ないからこそ こんな相談を持ち込んでくるが、
居れば当然自分など除外される事になる。
幾ら親しく仲が良いといっても ただのお隣のお兄さんだというだけの
関係に過ぎないのだから。
他の男との相談を受けてやる事が自分に出来るだろうか・・・・と、
八戒は 自分の心に問いただしてみた。
これまでは そんな相談事を持ち込まれたり頼まれた事などなかったので
考えてみたこともなかったが、の隣に他の男が居て、
自分はただの相談役として満足できるだろうか?
思考の中で作り上げた男のシルエットに対して、が笑顔を向けるのを想像してみた。
思わず怒りが湧く。
その自分の心の反応に、八戒は我ながら可笑しくなった。
何か話し出すのを待っているを見て誤魔化すように笑うと、
「何も無いのに例え話はよくありませんからね、止めておきましょう。
とにかく可愛いの頼みです。
次の日曜日は、付き合ってあげますよ。
その代わり、僕の頼み事も聞いて欲しいんですがいいですよね?」
八戒の言葉に、困ったと言う顔をしながらも「いいよ。」と、は渋々つぶやいた。
約束を取り付けて安心して帰って行ったを、窓辺で見送りながら
八戒は先ほどの自分の思考経路をもう一度辿ってみた。
そして もう一度同じ考えに至ったところで、これからの自分が何をすべきかを考えた。
「僕とした事が、とんだミスを犯すところでした。
既に恋している事に気づかなかっただなんて、まったく呆れてしまいます。
こんな状態で他に探そうとしても見つからない訳ですよね。
もう に片足を取られているんですから・・・・。
此処は 素直に残りの片足も差し出しましょうか。」
楽しそうに笑うと、の部屋に灯りがついたのを確認して窓を閉めた。
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29万打記念夢
