NO.55 砂礫王国





毎朝の習慣で、目覚ましをセットした頃になると休日でも覚醒へ向かって
意識が浮かび上がる。
瞼を上げる前に、カーテン越しの外の気配に耳を澄ませて、
今日の天気や様子を伺うのはいつもの癖だ。
夢も見ないでぐっすりと眠った。こんなことはとても珍しい。
気持ち良い目覚めになりそうで、気持ちが弾む。
「さ、今日は休みだし、天気がいいならお洗濯しようかな。」
起き上がろうと身体を持ち上げた。
腰に何かが絡み付いて、私を押さえているのに気付く。



布団を手で持ち上げて、それが何かを確認した私の目に入ってきたのは、
どう見ても男の人の腕。しかも自分は一糸纏わない姿でいる。
恐る恐る後ろを振り返る。
そこに居る人を見て、昨夜のことを全て思い出した。
そしてこの部屋が自宅ではないことも、遅まきながら目に入った。
いい気分の朝は一気に吹き飛んで、昨夜の記憶が津波のように押し寄せる。
「か・・・課長、お・・・おはようございます。」
その腕の力の入り具合から、もう目が覚めているであろう同じ布団の住人へ朝の挨拶をした。
私の挨拶に少し腕の力が緩んだ。
その辺を見回して洋服を探す。
脱衣所で脱いでたたんだ物を、此処まで持ってきたはずだ。



見ると、ベッドの向かい側のチェストの上に置いてある。
あれを取る為には此処から出なければならない。
しかし、窓が半分レースのカーテンのままになっているせいで、部屋は明るい。
このまま此処を出れば、裸身を課長にさらす事になる。
最後まで着ていたはずのバスローブはどこだろうと、対象を変えて見回した。
ベッドのすぐ傍に落ちている。
これならここから出なくても手に取れるはずだと、手を伸ばした。
だが、伸ばした手は途中でそれ以上進むことが出来なくなった。
二の腕をつかんだ手に動きを阻まれたのだ。
「離して下さい。」
後方にいる人に背中越しで伝える。
「どうするつもりだ。」
「もちろん帰ります。昨夜のことは、私も同意で関係を持ちました。
課長を糾弾しようとは思っていません。
課長だってもうお気が済まれたでしょ?」
つかんでいる手をほどこうと、課長の手の上に自分の手を置いた。



「どう気が済んだって言うんだ。」
いつにも増して不機嫌そうな声が、返ってくる。
「つまり、誰でも隣の芝生は青く見えるわけです。
そして、人のものになりそうな女や人のものだった女に興味を抱くのも否定しません。
私が彼に操立てをしているのに男としての食指が動いた。
もしくは、未亡人的生活を送っている女を落としてみたかった。
そういうことなら、もう十分に気が済まれたでしょうと言ったんです。」
腕を振り払おうと何度かやってみたが、無駄に終わった。
「まだ、あいつのことが好きなのか?」
その課長の無遠慮な言葉に、思わず唇を噛んだ。



私の気持ちを説明しなければ、課長には放してもらえそうに無い。
少し大きめにため息にも似た息を吐いて見せて、口を開いた。
「ええ、そうです。
今でも彼が好きです。忘れられるわけが無いでしょう。
今後、誰かを好きになって人生を共に歩く人が出来たとしても
彼を忘れてしまうことなんて出来ません。
彼への想いは、私の中で完結できないままなんです。
ある日突然に彼を目の前から奪われた・・・そんな感じのままなんです。
『生きている人では貴方が一番。』そういう言葉で愛を語られて、
それを許してくれるような男性なんて早々居ません。」
課長の腕にそっと手を重ねて、腕から離してみようとしてみた。
今度は難なく手は大人しく離れて行った。



ベッド脇に落ちていたバスローブを拾い上げて、課長に背を向けたまま袖を通した。
チェストの上の洋服を持つと、「シャワーをお借りします。」と言い置いて
部屋を出て浴室に向かった。
背中に「後で話がある。」と課長の声がかかったが、
それには頷きも返事も返さず課長の方を一度も見なかった。
課長の方を見なかったのは、昨夜のことが遊びだと駄目押しをされるのが
怖かったんじゃないかと、そんな風に思えた。
あの硬質で冷たい輝石色の瞳で見らるのに、耐えられなかったんじゃないのか・・・と。
だから、自分の言葉で自分を傷つけるようなことを言って、
課長からの言葉を遮ったのかもしれない。



「まるで、課長に落ちないように必死になってるみたい。
課長はどう思っているのかさえ、分からないのに・・・。」
浴室はシャワーの水音があるから、声を出しても外には聞こえないだろう。
だから、今の言葉も聞こえたのは私だけ。
それを踏まえて、あえて声に出して言ってみた。
課長に対しては、なし崩し的なことだったとは言え
身体さえ許してしまうくらいだ、好きであることには違いない。
彼が死んでからと言うもの、今までは弾みでも誰かに抱かれようとか、
許そうなどと思いもしなかったのだから、間違いなく好意は持っている。
課長の気持ちを無視して、勝手に私が色々考えてもしょうがない。
ここは、今後の自分のためにも課長に『昨夜のことは忘れてくれ。』とか、
『遊びだ。』とはっきり言われた方がいいと思った。
じゃないと、私の中で何かが崩れていくように思えた。
そう決断して浴室を出ると身支度を整えて、リビングに戻った。



ドアを開けると、コーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐった。
「自分で淹れろ。」と新聞越しに言われて、キッチンへと向かう。
コーヒーメーカーの横にマグが一客用意されてあった。
それにコーヒーを注いで、課長の元へ戻る。
テーブルを挟んで向かい側のソファに座ると、
広げていた新聞をたたんで課長が顔を出した。
「昨夜のことだが・・・・」
課長がいきなり核心部分を切り出した。
この人は無駄な会話を好まない。
単刀直入なのが売りだ。
天気の話とか、雑談なんかでお茶を濁さない。
だからいつも話は早くて助かるのだが、こんな時は少し恨めしくなる。
それでも少し言いよどんでいる所を見ると、話し難い話題であることではあるらしい。



「昨夜のことだが、俺は本気だ。
遊びだと思ってるんなら考え違いだ。」
課長の言葉を全部理解するのに、珍しく数秒を要した。
「でも課長・・・」
「三蔵だ、何遍言えば分かる。
それに俺はが『生きている人では貴方が一番。』と言っても、それが真実なら許す。」
課長の言葉に、口元まで出掛かった言葉を飲み込んでしまった。
課長がこういう言い方をする時は、本気なのだと今まで一緒に仕事をしてきて
嫌というほど分かっている。
すでにある程度はこちらに譲っているのだ。
記憶の中に段々と埋没していく彼との思い出と違って、
生きている人のそれは、日を追って強く大きく新しくなる。
まさに今、目の前にいる男性は、私の視界の中で生きている。
それを強烈に感じていた。



欲しかった言葉ではない。
私と彼の思い出の城を守る為のものではない。
よりその城を堅牢にするための言葉が欲しかったのに。
課長が私に放った言葉は、その逆と言ってもいい。
角砂糖に一滴の水が落とされるように、課長の言葉は私の心の城に染みて入ってしまう。
乾いて固まって硬いはずのそれは、その一滴でもろくなってしまう。
彼に残されてから、必死になって今の状態にしたのに、この安定を失いたくない。
「どうして、私なんですか。
私は今のままで幸せなんです。
課・・・・三蔵さんには、もっとお似合いの素敵な女性がいるはずです。
死んだ婚約者をいつまでも忘れない女など、放って置いて下さい。」
課長の眼は見られなかった。
あの心の奥底まで見透かされるような紫の眼光を受け止める自信が無い。



「それが、そんな今のが奴の望みだと思っているのか。
だとしたらとんだお門違いだな。」
フンと鼻で笑うと、課長はテーブルの煙草に手を伸ばして1本引き抜いた。
手馴れた手つきでそれを銜えて火を点けると、大きく一息吸ってゆっくりと吐き出していく。
そんな不遜な態度までが、絵になる男の人だと思った。
悔しいけれど、今言われた言葉は自分がいつも心のどこかで思っていることだ。
今の私の状態が、彼の望んでいる私の状態だとは思っていない。



もし、彼と私の立場が逆で、私が彼をおいて死んだとしたら、
私のことは忘れて欲しくはない。
けれど誰か、そう生きている誰かと共に歩いて欲しいと思うだろう。
その人を愛して死ぬまでは幸せにいて欲しいと思う。
1人で誰も愛さず、誰にも愛されないままに生きて行って欲しくはない。
きっとそう思うはずだ。
だから、死んだ彼が私に望むことも同じだと思う。
自分以外の誰かを愛して欲しいと・・・・・。
でも、分かっていることと、それを実行に移すことは別問題だ。



「俺が、あいつの分までを愛してやる。
忘れろとは言わない。
だから、あいつを抱えたまま俺のところに来い。」
手にした煙草を灰皿でもみ消すと、課長が立ち上がった。
私を見つめたまま、そこで動こうとはいない。
視線を合わせたまま、私も立ち上がった。
課長の姿が、だんだん歪んで見え始める。
瞬きするたびに頬を伝う熱い雫に気が付く。
彼を思って流す冷たく寂しい涙とはあまりにも違うことに。
私にはまだこんなに熱い涙を流すことが出来るんだと思った。



彼が、夢の中でも駄目押しのように私に別れを告げたのは、
このためだったんじゃないかと思った。
私を托せる相手が現れたから、自分を私に思い切らせるために・・・。
どこまで私は彼に心配をかけているんだろう。
彼は、本当に私を愛してくれていたんだ。
今頃、こんなに実感するなんて。
落ちてもいいんだ・・・・と、言われているのだと思った。


この人との恋に。



それなら・・・・と、課長に向かって私は一歩を踏み出した。




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39万打通過記念夢