NO.98 墓碑銘




課長の腕の中は、彼とは違う匂いがした。
コロンももちろんだけれど、彼は煙草は吸わなかったから。
思った以上にこの人らしいと思うこの香りは、煙草のせいかもしれない。
まだ、馴染むほどはないけれども、落ち着ける気がする。
そして、その内に私の生活に、なくてはならない香りになるのかもしれない。
課長は黙って、私を抱きしめたままいてくれた。
どこにも行くつもりはないのに、背中に回された手はずっとそこにある。
手から伝わる温かさが嬉しい。
それがなんだか、口数の少ない課長の意思表示のような気がした。



不意にその手が離れて、私の肩をそっと包んだ。
身体を起こして課長を見上げる。
間近で見る課長の瞳は綺麗な輝石色をしていた。
その瞳の中に、小さく私が映っている。
私だけを課長が見ている。
逃げるように目を閉じて下を向こうとした。
それを課長の手が阻む。
顎をつかまれてしまった。
昨夜、抱かれた時にもキスはされたけれど、こうして改めてされると気恥ずかしい。
こんな気持ちを抱くことが、恋をするということなのだと思い出す。
彼との初めてのキスもこんな風に迎えたような気がする。
あれは、まだ思春期と呼べた頃のことだっただろうか・・・。



彼とは違うキスだ。
そう思ったら身体に力が入ってしまう。
比べちゃいけない、そう思えば思うほど彼との違いが鮮明になるような気がして
課長のキスに応えられない。
さっきまで吸っていた煙草の匂いもほろ苦い味も彼とは別の人を思わせる。
どうしたらいいの?
昨夜はどうやって応えていたのか思い出そうとしてみたけれど、
焦っているのか思い出せない。
それまで優しいのに苦しいほど翻弄してくれた唇がそっと離れた。
「あいつしか知らねぇんだったな。
比べてみてどうだ?」
唇の上でだけわずかに笑みを作って、課長がそう尋ねる。
心の中を見透かされたような気がして、思わず顔を逸らした。
「そう気に病むな。
比較されるのは、覚悟の上だ。」
課長は、私を放すとソファに座りなおした。
もうぬるくなってしまっているはずのコーヒーを一口飲んで、
テーブルの上の煙草に手を伸ばした。



くわえて一息吸ってそれを吐き出すと、火の点いた煙草の先を見ながら、
「だからと言って、いつまでも比べられるのは本意じゃねぇ。
まあ、気が長くない俺のことだ、早く慣れろ。」
私の方を見ないで言われた言葉に、そっと頷いた。
忘れろとは言われないことが、嬉しかった。
今までとは違う意味の涙が溢れる。
「一度帰って着替えて来い。
泊まる用意も忘れずにな。」
そう言ってポケットに手を突っ込むと、何かを取り出してこちらに投げてよこした。
あわててそれに手を伸ばし、上手くキャッチして手の中を見ると、
何もついていない鍵だった。



「あの、これ・・・。」
「あ? この部屋のだ。
指紋を入力するからこっちに来い。」
先に玄関へと向かう課長の背中を追うと、玄関のタッチパネルになにやら打ち込んでいる。
「此処に右の中指を置け。」
わけの分からないままに言われる通りにする。
「これでいつでもここへ入れる。
着替えに行ってこい。」
そう言われて、「はい。」と返事をして荷物をまとめて課長宅を後にした。
自分の家に帰る短い道でも部屋に入ってベッドの上に座っても、
突然の嵐のように自分に起こったことが未だに信じられないくらいだ。



この私が、彼以外の人とベッドを共にしてその人と付き合うことになるとは・・・・。
課長がうちの課に来た時には考えもしなかったことだ。
本当に人生って何がおこるか分からない。
なんだか課長の勢いに流されたような気がしないでもないけれど、
それでも お付き合いをすることに私は自らの意思で同意した。
肌を合わせたからではない。
そんな理由で付き合うことにしたと知ったら、あの課長が許すはずがない。
だから、まだそれほどの自覚はないけれど、
私は課長のことが好きなのだと思う。
だって、いくら流されたとしても好きでなければ課長のことを
この身体に受け入れたりしない。
逃げようと思えばチャンスが無かったわけじゃない。



課長の気の短さには定評がある。
だから、いつまでも考え込んで座っているわけには行かないと、
カジュアルな普段着に着替えて、着替えや下着やパジャマをカバンに詰めた。
手にした鍵を、自分の部屋のキーホルダーに一緒につけた。
これからどうなるかわからない相手に、こんなに早く自宅の鍵を渡すなんて、
課長も随分な冒険をするもんだ。
らしくないような気もするし、凄くらしいとも思う。
このまま課長の部屋に行かなくてもそれはそれで済んでいくだろう。
課長の性格から言って、去っていく者を追ってまで付き合おうとはしないと思うから。
鍵だって、封筒に入れて返せばそれで終わりだ。



だから・・・・だからきっと課長は私を此処へ一旦帰した様な気がする。
昨夜は課長に手を引かれて、あそこへ連れられて行かれた。
私が自分から行ったわけじゃない。
だから昨夜の関係は、課長からの一方通行だと言えることも出来る。
でも これからこの手の中の鍵で、私が自分から課長の部屋に向かえば、
課長とのことを私も選び取ったと言うことになる。
課長はそうして欲しいのかもしれない。
彼を忘れなくてもいい、そのまま心の中で愛していてもいい。
でも 生きている者の中では、自分の選んで欲しいと・・・。
課長はそう言いたいに違いない・・・そう思った。
ミュールを引っ掛けて、ドアから出る。
振り返って自分の部屋に鍵をかけた。
うん、これでいい。



課長の部屋に戻ると、カバンを置いてキッチンへと入った。
「何か作りますね。」
そう言って冷蔵庫や引き出しをあさって、ありあわせでパスタのブランチを作る。
ふと、課長の前のテーブルに置いてある灰皿に目がとまる。
時間にしてみたら、私が自分の部屋に行っていたのは
それほど長い時間じゃないはずなのに、
その灰皿には針山のようになった煙草の山があった。
課長と言えども恋する男なんだ・・・と、自分の中に浮かんだ考えに
なんだか嬉しくなる。
口には出さないけれど、灰皿をこんなにするほど
私がここに戻るのを待っていてくれたんだ。
求められると言うことを、懐かしく感じる。
課長に求められて嬉しいと感じる。
これが恋すると言うことなんだと、身体の芯が熱くなるような気がした。



その夜。
課長の腕に抱かれて眠りに落ちた私は、夢の中でまたあの海に来ていた。
今夜の海も穏やかな波が打ち寄せ、肌をくすぐる風は優しい。
私の足は当然のようにある場所への道を辿る。
そして、先日彼に別れを告げられた場所に来た。
彼は、あの日宣言した通りに、夢にさえ現れなくなっていた。
生前も彼は律儀な性格だったから、彼らしいと思った。
そんなに気を使わなくてもいいのに・・・・。
共に歩ける誰かを見つけなさい・・・と、彼は言ったけれど、
課長が私の前に現れてそしてこうなることは、分かっていたに違いない。



だから、それまでは49日の法要が済んでも、納骨が済んでも、
1周忌を営んでも私にだけは会いに来てくれたんだ。
私を精神的に守ってくれていたのは、彼だった。
私が何とか立ち直って人並みになれたのは、
彼が夢でだけでも会ってくれていたからだ。
どこまでも、どこまでも、心配性で優しい人。
もう、此処に来ても会えない事は分かっている。
彼が消え去って行った森は、目の前にあるけれど
私はそこへ行こうとは思わなくなっていた。
もう その必要はないからか、足を拘束する波や砂も感じない。
彼を懐かしむことはあっても、追おうとはしなくなったからだろう。



もし今、この夢で願うことがあるとすれば、
遠くに去った彼に、私はこれから幸せになるために努力すると
伝えられたらいいと思う。
もう、夢にも現れてくれないのなら話も出来ないのだから。
砂に書いても打ち寄せる波に消されてしまうし、
此処には代わりになるようなものが何も無い。
きっと、私の考えていることなど、彼には既に伝わっている。
だから 何もする必要がないから、その手段が現れないのだ。
そう解釈した。



風に飛んだのか一輪の花が私の手の中に落ちた。
夢の中でそんなことが起こるはずは無い。
彼が贈ってくれたんだ。
「ありがとう、さようなら。」
思うだけで感じてくれるのなら、言葉にする必要なんてないけれど、
それでも言葉で彼に伝えたかった。
青い空と綺麗な緑が、視界の中でゆがんで行く。
幸せな思いの詰まった雫が、頬を濡らす。
彼が死んでから初めて笑顔で涙を流す。
もう、此処へ来ることも叶わないのだろう。
そんな気がした。



。」
耳元で彼ではない声が私を呼ぶ。
意識が浮かび上がると同時に、美しい景色は闇に包まれて消えた。
瞼を上げると、心配そうに私を覗き込んでいる課長の顔。
「大丈夫か。」
「えっ。」
「寝言を言った後で、泣き出したからな。」
「えぇ、夢を見ていたんです。
この間彼に会ってさよならを言われた場所に、私が一人でいました。
もう、彼は夢でも会ってくれないようです。
姿を見せてさえくれませんでした。」
課長は、私を腕の中へ入れると両手を背中に回してくれた。
「俺がいる。」
「だからです。
三蔵さんがいるから、彼はもう私には会ってくれないのでしょう。
でも 花を一輪贈ってくれました。
幸せになりなさいって意味ですよね・・・・きっと。」
「優しい奴だったからな。」
「はい、優しい人でした。
泣いたのは、彼に私の今の幸せな気持ちが伝わったからです。
もう、悲しい気持ちを伝えなくてもいいんだということが、嬉しくて・・・。」
「そうか。」
課長の唇が額にそっと触れて、私は少し顔を上げた。



その輝石色の瞳の中に微笑んでいる自分を見つけるために・・・・・。








40万打記念夢として
2005.03.25up

この作品を最後に、「黎明の月」ではカウンター1万打毎に
更新しておりました「記念夢」を、終了させて頂きました。
また、2002/3/8から始めました「文字書きさんに百のお題」も
無事に百題完結を迎えることが出来ました。
ありがとうございました。