NO.50 葡萄の葉






彼女を誘ったのは最近流行の「ネオクラシック」とも呼ばれるジャンルだ。
CDも沢山出ている。
少し前はこんなCDはそれほど出てなかったし、コンサートもなかった。
堅苦しくなくて、それでいて落ち着いていて。
CMのバックで使われるように軽い音楽だけれど、ちゃんと生で聞けば
美しくて癒されるような・・・・・。
そう彼女に感じる僕のイメージかもしれない。


ホールの前で待ち合わせをして、軽い挨拶を交わす。
コンビニの制服を脱いで、私服の僕を見るのは初めての彼女は、
視線を泳がせたりして照れているらしい。
その反応の新鮮さが、可愛いなと思った。


チケットを頼りに探した席は、まあまあの場所だった。
これならいい音で聞けるな・・・・と、安心した。
シートに座っていくらもしないうちに会場内の灯りが落とされる。
ステージ上のライトが点いて、コンサートが始まった。
そっと横の彼女の様子を伺う。
ライトにきらめいた瞳には、楽しそうな色が浮かんでいるようだ。
良かった。
ともかく、楽しんでくれればいいと思う。


これから先、彼女と付き合うことになるのか振られてしまうのは分からないが、
それでも彼女の中にこのコンサートの思い出が、
いい印象で残ってくれれば僕は満足だ。
共有したこの時間は、思い出や聴いている音楽と共に残るものだから。
音は確かに見えないし、形もないものだけれど、
その分印象的に残ることがある。
その曲を聴くと、何かを・誰かを・その時を思い出すのは良くあることだ。


ヴァイオリンの音色は、まるで葡萄の葉の上を触るごとく柔らかで滑らかだ。
すこし毛羽立っているその上を触っているかのように、耳から滑り込んでくる。
風に揺れる繊細さをもって、陽射しに緑を濃くする生命感を伴って。
それにヴィオラなどの弦楽器が絡んでくる。
そうまるで、葡萄のツタが絡まるように・・・・。
その音色と共に、僕の記憶が彼女の時間を絡め取って、
他の誰かと一緒にいても僕を思い出して欲しい。


肘掛にかけていた僕の腕が思わず音色に動いて、彼女の手に触った。
彼女の肩も手もそれに反応して、ビクッとわずかに震えた。
すぐに離れようと思った。
でも 僕の手は言うことをきかなくて、少しだけ彼女の手に触れたままだ。
動けないなんてことはないはずだから、これは僕の願望なのだろう。
彼女もどうしたらいいか戸惑っているはずだ。
触れたまま止まっている。
指の甲と指の一部が少しだけ触れているだけなのに、
まるでそこに心臓があるように脈打っているように感じる。
彼女に僕の鼓動が知られてしまいそうだ。


もう2度とないチャンスかもしれない。
だから もう少しこのままと願ってもいいのかもしれない。
僕はそう思った。
せめて彼女から離れてしまうまで。


けれど、彼女の手は動かない。
それ以上触れても来ないけれど、それ以上離れてもいかない。
曲はまだ半ばを過ぎたばかりだ。
終われば拍手のために、手は離れてしまう。
間違いなく。
振り払われるだけのことだ。
そう思ったら、彼女の手を・・・・正確には彼女の指の数本に
僕の指を絡ませていた。


ここで手を引かれたら、それで終わりにすればいい。
コンサートが終わったら、拾ったタクシーに彼女を乗せて
ありがとうの言葉と共に見送ればいいだけのことだ。
そう覚悟をした。
でも僕の予想を裏切って、彼女の指は離れていかなかった。
手元を見ないけれど、多分触れているのは人差し指と中指だと思う。
その僕の手の甲に彼女の親指が添えられて、僕が握りやすいように
手のひらが上を向いた。


もちろん僕はその手を優しく握り、僕の手の中に彼女の手を包んだ。
初めてちゃんと触れた彼女の手は、いつもお金をやり取りする時に
目にしている通りに華奢で、力を入れるとつぶしてしまいそうだ。
手が触れてから初めて、彼女の方を向いて顔を見た。
彼女もそれに気づいて、こちらを見てくれた。
恥ずかしそうな笑顔がそこにあった。
きっと僕の顔も笑っているだろうと、僕は思った。







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現代短編 八戒/拍手小説11・12話分