No.49 竜の牙
しかし、私の思いは次々と裏切られていった。
課長は何がお気に召さないのか、女子社員に次々とクレームをつける。
最初は興味本位で見ていた男性社員もその様子に渋い表情をするようになっていた。
何様だとか、何が気に食わないんだと、陰口を叩くようになる。
それは外から入ってきた人に対する身内贔屓も手伝って、
課長VS課の社員みたいになりつつあった。
何人か目の女の子が帰ってきて自分のデスクで泣いていると、
課長が初めて女の子の後を追ってやって来た。
その姿を見て男性社員の顔色がさっと変わって、課内の空気が変わったのを
肌で感じて思わず息を詰めた。
課長は私のデスクのそばに立った。
それはこの課の受付のような場所なのだから、無理からぬことだが。
恐る恐る顔を上げて課長を見る。
そのYシャツの襟に今泣いて帰ってきた彼女の口紅と同じルージュの赤い跡。
「既婚なら不倫に興味の無い女。
未婚なら結婚とか玉の輿に興味の無い女は、この課にはいないのか?」
突然、そんな質問を課内へ向かってした。
まるで隠し持っていた牙をむいた竜のように、鋭い視線と威圧的な態度だった。
襟のルージュの跡と今の発言で、何が言いたいのかが分かった。
今までの女性社員は全員が課長に言い寄ったということを意味する。
気色立っていた男性社員の肩から力が抜けたのを感じる。
「誰かいないかね?」
壮年の男性社員が立ち上がって、女の子たちに向かって尋ねた。
その場が静まりかえる。
此処で立候補することは、課長には興味が無いと宣言するようなものだ。
この人を前にしてそれを言い切れる女性などいないかもしれないと、
なんだかみんなが気の毒に思えた。
私には最初から課長が綺麗な男だろうと、金持ちだろうとどうでも良かった。
私が立候補するのがいいかもしれない。
そう漠然とした考えが浮かんで、思わず片手を上げていた。
「君、君やってくれるか。」
女の子に声を掛けた壮年の男性が、ほっとしたように私に確認をした。
「じゃ、付いて来い。」
課長は言葉少なくそう指示すると、自分の仕事先である会議室へときびすを返した。
椅子から立ち上がると、隣の子が「大丈夫?」と心配そうに言ってくれた。
「うん、仕事なら分かっているし、課長に興味ないから。」と、
私は軽く微笑んで椅子を片付けると、課長の後を追った。
会議室への途中で、給湯室でコーヒーを入れ応急処置用に買ってある染み抜きを持つ。
来客があったらあの襟では課長も困るだろうと思ってのことだ。
会議室のドアをノックしてから開けて入ると、課長は窓辺に立って外を見ていた。
「課長、Yシャツの襟のしみを抜きますから、脱いで下さいませんか?」
テーブルにコーヒーを置きながらそう声を掛ける。
「酷いか?」
背中を向けたまま課長がそう尋ねてきた。
「はい、結構べったり付いていますよ。とても誤魔化せません。
応急処置用の道具ですが、今付いたばかりですから何とかなると思います。
大丈夫ですよ、Yシャツを脱がせて襲うとなんて思っていませんから。
ご自分に興味の無い女性社員がご希望でしたよね。
私ならその心配はありませんから。」
出来るだけドライに聞こえるように、抑揚を付けずに話す。
「そうか。」
何処かで安堵したような声で、課長が息と一緒にそうもらすのを聞いた。
よほど困っていたんだなと、気の毒に思った。
私のように興味の無い女が見ても、そこらにいる女性よりは確実に綺麗という言葉が
似合うような男性だと思う。
男の人に『綺麗』という言葉はどこか似つかわしくないと思うのだが、
課長ならそうでもないんじゃないかと・・・・。
多少なりとも信頼をしてくれたのか、Yシャツを脱いで渡してくれた。
さっさと染み抜きをして、何とか口紅を落とす。
こんなところを誰かに見られて要らぬ噂をされてはたまらない。
そうやって、私は玄奘課長のアシスタントのような仕事をすることになった。
課長が資料をだいたい読んで、課内のことを把握するのに1週間。
会議室を出て課内にある自分のデスクで仕事を始めると、
その仕事振りに段々皆が課長を信頼し始めて、いいまとまりを見せるようになった。
課長の引継ぎが一段落した頃に、歓迎会をしようということになり、
金曜日を選んでセッティングされた。
お酒が飲めないわけじゃないが、こういう席だと無礼講だと言っては
絡んでくる男性が必ず出るのは世の常だ。
まして彼が逝ってから男性との付き合いを出来るだけ避けている私は、
お堅い女だとでも思われているらしい。
普段はそんなことを素振りにも出さないのに、酒が入ると途端に好奇心丸出しで
男っ気が無いのは何故だと尋ねてくる。
中にはセクハラまがいの質問や申し出までされることも・・・。
そんなときはいつも化粧室に立つ振りをして帰ることにする。
お局様になるまでにはまだ間があるけれど、小局様くらいにはなっているかもしれない歳だ。
そっと店を出れば、誰にも止められるような事にはならない。
入社したての可愛い子やそそるタイプの綺麗な子を相手にしてて欲しい。
まだ 彼に縛られていたいと思っている私には、その思い出をぶち壊すように
ずかずかと踏み込まれたくないだけだ。
本当に化粧室を使って通路に出ると、店の出口に向かって歩き出した。
「さん、課長がご気分が悪いみたいなんですが、どうしたらいいですか?」
突然に背中からそう呼び止められた。
例の件があってから、女の子たちは異常に課長を怖がっている。
近寄ればその牙の餌食になるとでも言わんばかりの態度だ。
もっとも 課長をそうさせてしまったのは、他ならない彼女たちなのだけれど。
そのため、課長に何かがあると、その世話役は私に回ってくる。
せっかく帰ろうと思っていたところだけに、思わずため息が漏れた。
「それで、課長は?」
話しかけた女の子に課長の居場所を尋ねると、使っている和室の隣が空いているとかで
その部屋に案内された。
Yシャツに緩められたネクタイ姿で、壁にもたれかかりぐったりとしている。
「お水もらってきてくれる?」
後から付いてきた女の子にそう頼んで、課長のそばへに膝を付いた。
「課長、大丈夫ですか?
いまお水をもらって来ますから・・・・・。」
その横から、水の入ったコップが差し出された。
課長は彼女からコップをもらうと、一口水を飲み込んだ。
「タクシー呼んでくれ。」
それだけ言うと、もう一口水を飲む。
「私、タクシーお願いしてきますから、さん課長を送って頂けませんか?」
「はあ?」
「だって、さん以外の人が送っていったら、課長きっと嫌だと思います。」
彼女の言葉に思わず眉間に力を入れて、首をかしげた。
「だって、課長が唯一信頼している女子社員はさんだけですよ。
みんなもそう言っています。
私もそう思いますし、さんなら課長も何も言わないと思うんですよね。」
それだけ言うと、彼女は部屋から出て行った。
戻ってきた手には課長の上着とビジネスカバン。
「今、タクシー来たそうですから。」
困ったような顔でそれを差し出されて、私は断り切れなくなってしまった。
脇の下に自分をもぐりこませるようにして、課長を何とか立たせて玄関へと向かう。
千鳥足ながら他の人の手を借りるほどではないことに安堵する。
此処で私1人だけで送れる様子でないのなら、他にも誰か頼まなくてはならない。
女の子はまず無理だろうから、男性社員になる。
課長を送るまではいいのだが、その後その人と2人になる事が嫌なのだ。
「じゃさん、お願いします。」
女の子数人とまだ泥酔していない男性社員に送られて、タクシーに乗った。
緊急の連絡用にと課長には資料閲覧時に住所とケイバンは聞かされていた。
カバンの手帳からそれを拾うと、運転手に住所を告げた。
課長に直接言ったことは無いが、の自宅であるメゾンと目と鼻の先に建つ
豪奢なマンションが玄奘課長の自宅だった。
いくつか角を曲がったところで、リアシートの背もたれに身体を預けて
瞼を閉じていた課長が、座りなおして大きく息を吐いた。
「付き合わせたな。俺が降りた後、このタクシーをこのまま使って帰れ。」
しっかりといつもの課長だった。
「もう大丈夫なんですか?」
「あぁ、はなから酔っちゃいねぇ。ああでもしねぇと帰れねぇだろう。」
誰かから渡されて手にしていたミネラルのペットを私の手から取ると、
ふたをねじ切って開封し口をつけた。
「そうですか、そのご様子ですと大丈夫のようですのでお言葉に甘えます。」
「あぁ。」
そのまま課長は言葉を口にしない。
その沈黙がなんだかうれしかった。
車を止めて課長が降りた。
「それでは課長、おやすみなさい。」
バタンとドアが閉まって、タクシーはすぐに走り出す。
50メートル走ってもらって、すぐに私も降りた。
課長はまだマンションの前に立っていた。
タクシーが走り去ると、課長はこっちへと歩いてきた。
「名簿で見て近いとは思っていたが、此処とはな。」
私は課長に渡されていたタクシー代のおつりを渡そうと、手を差し出した。
「ありがとうございました、おつりです。」
「あぁ。」
返事と一緒に課長の手が私の手をつかんで、一気に引き寄せられた。
「あっ、何を・・・・」と、見上げて文句を言いかけた唇に何かが触れた。
暖かくて柔らかい何か。
「よく休めよ。」
フリーズしたように動けなくなった私を置いて、課長はきびすを返すと
自分のマンションに帰って行った。
------------------------------------------------------------
36万打記念夢として
|