NO.43 遠 浅







海に来ていた。

彼と何度も足を運んだ見慣れた海に・・・・・。

潮の香りのする少し温かい風と打ち寄せる波の音。

今、私は自分が夢を見ている自覚があるから、これは本当ではないと分かっている。

だって、忙しくて海に来る時間など無いはずだから。

何を思って海に来た夢なんて見ているのだろう。

恋人がいなくなった女が、何をしに一人で海に行くというのだ。

どうせ海に行くのなら、こんな凪いで穏やかな海ではなく、

断崖に荒々しい波が打ち寄せては砕けるような・・・そんな海が似合っている。

トレンチコートなんか着ていれば完璧かもしれない。

そう思って、夢の中にもかかわらず私はクスッと笑った。

あぁ、夢で彼が死んだことを思い出しても泣かないだけにはなったんだと、

何処かでその変化を冷静に見ている自分がいた。



彼との付き合いは高校時代から始まっていたから、若かった2人は何度も海へ行った。

婚約した頃には愛し合っているけれど穏やかな付き合いで、

凪いだ入り江の海のようなそんな彼と私になっていた。

隣に立つ彼を見て、こうしてこの人の髪の生え際に白いものが目立つようになるまで

一緒に生きていくんだと、そんな風に考えていた。

それが当たり前だと思っていた。

これから何度も海には来るだろう。

来年も再来年も・・・・・と。

そう考えていたのは何時の日だったろうか・・・・。

自分たちだけではなく、いずれは子供と一緒にと。

彼との未来を夢に見ていた。

やっぱり、夢は夢にしか過ぎない。

叶えられないままに、儚く消え去ってしまったのだから。



遠浅の入り江には、静かに波が打ち寄せる。

私はそこを裸足で歩いている。

誰もいないはずの海岸に一人の男性が立っていて、こちらを見ている。

彼、だろうか?

これは夢だから、私の望みどおりに誰かが現れるのならば、

それは失った彼しか思い当たらない。

彼のところに行こう。

そう考えて意思を持って歩き始めた途端、砂に足を取られて前に進まなくなる。

邪魔されている。

彼の元へは行かせないと、海が波が邪魔をしている。



向こうで彼が振り向いた。

やっぱり、彼だ。

、もう僕への呪縛から自分を解放してやるんだ。

僕はもうそばに居て君を守って愛してやることが出来ない。

だから、誰かを愛することを怖がらないで欲しい。

いいね、約束だよ。」

遠くにいるはずなのに、聞こえてきた声は耳元で囁かれているようだった。

「待って、お願い。

一緒に連れて行って。

他の人を愛せなんて言わないで。」

薄く消えつつある後姿に、言葉を投げてみても振り返ってもくれない。

「待って。」

手を伸ばして叫んだ。



自分の声で目が覚めた。

自分で知っている限りでは多分最悪な目覚めだろう。

「現実でも居なくなったくせに、何も夢でまで会えなくなるなんて酷いこと

しなくてもいいと思うんだけどな。

貴方はどこまで私を苦しめるの?」

枕許に飾ってある写真フレームの中の彼の笑顔を睨む。

死んだ人は写真の中で歳を取らないから、彼はその写真を撮った

1年と少し前のままの笑顔だ。

重いため息を吐いて、ベッドから抜け出て出社の支度を始めた。



重い気分のまま一日何とか仕事をこなし、帰路に着いた。

最寄の駅で降りて歩いていてふと目にとまった書店に入る。

実用書のあたりを探して「夢解き事典」を手に取った。

目次の「場所編」から「海」を探してそのページに飛ぶ。

『海
1、母なるもの
2、過去の一切を包含した無意識世界

穏やかな海
前途が順調であること。
懸案がある場合は、問題なく解決することを示している。
良い縁談や結婚の暗示でもある。』

簡単に解釈すれば、あの夢は良い夢であるらしい。

そして私は、その穏やかな海で彼と別れた。

否、正確には彼に別れを告げられた。

もう夢でさえ彼とは会えないらしい。

まあ夢でのことなので、どこまで本当かは分からないが・・・。

これからの良縁のために、彼は名実ともに私から去って行ったと言うことになる。

「そんな良縁がどこにあるのよ。」

本に向かってそんなことを言っても始まらないとは知っているが、

思わず口に出してしまっていた。

「此処だ。」

後ろから聞こえてきた聞き覚えのある声に、驚いて後ろを振り返れば

そこに玄奘課長がいつの間にか立っていて、私の手にしている本を覗き込んでいた。



歓迎会の後も何事もなかったように接してくる課長を見て、

あれは現実に起こったこととは思えなくなってきたところだけに、

今の一言に不意打ちを食らったような気がした。

飲んだお酒が見せた一瞬の夢だったんじゃないかとさえ思い始めていた。

もし、現実に起こったことだとしても、課長も酒のせいで気が緩んでいたのだ。

そう片付けて忘れてしまおうと考えていたのに、

どうしてこの人はそれをあっさりと崩してくれるんだろう。

だいたい、あの晩のキスだって本気じゃなかったくせに。

いい加減にして欲しい。

「此処になんて無いですから。」

私は本を棚に戻して課長の脇をすり抜けると、書店を出て自宅へと歩き始めた。



硬いアスファルトをいつもより大股で歩く。

ヒールのかかとが鳴らすコツコツと言う音が、いつもより大きい。

その分だけ、今自分が怒っているのだと思う。

ちょっとからかわれただけじゃない。

そんなことは分かっているのに、昨夜の夢とその夢を解いた本の活字のおかげで、

冷静になんかなれなかった。

笑って流せるほどの余裕が無い。

それこそ、堅物で面白味の無い女に見えるだろう。

課長もいい加減に私を相手にからかうのは止めて欲しいものだ。



書店から200メートルくらいは、勢いで歩いてきた。

一度止まって大きく息を吐いて吸うと、後ろを振り返ってみた。

すぐ後ろに立つ人に、思わずため息を吐いた。

もう遠慮なんかしてられるか・・・と、頭の何処かのコードがプチンッと切れたような気がする。

「・・・・・・課長、いったい何を仰りたいんですか?

それともこれは一種の肩たたきですか?

もうはっきりと言って下さい。配置転換希望でも転勤希望でも出しますから。」

睨んでいるのはこっちなのに、課長の態度にこちらが睨まれているような気がしてくる。

負けるもんですか。

そう思って、さらに目に力を入れた。

心なしか課長のこめかみに怒っている印のように言われている青筋が浮かんでいるような、

眉間に寄せたしわが深くなったように思えた。

今更取り返しなんか出来ないけれど、ヤバイかもしれない。

喧嘩する相手を間違えたような気まずさが、私と課長の間に横たわっている。



課長がその均衡を破って、私に近寄ると腕をつかんだ。

「面倒くせぇな、ちょっと来い。」

痛くは無いものの逃げられないほどにはしっかりとつかまれている。

自宅の方向は一緒だから、向かう方向には問題が無いのでそのまま歩いた。

自分の自宅前を通り過ぎ、課長のマンションのエントランスまで連れて来られた。

「あ・・あの、帰らせて下さい。」

「あぁ? 却下。」

「でも 上司と部下なんですから、個人的なお付き合いはしなくてもいいと思うんです。

仕事のことは会社で話して下さい。今はプライベートな時間のはずです。」

このままでは連れて行かれてしまうと、腕を無理に引こうとした。

「プライベートだ。」

「は?」

「だから、これから話すことはプライベートなことだと言っている。

四の五の言わずに付いて来い。」

了解したわけではないが、課長の勢いに気おされて思わず頷いた。

腕は放されたけれど、逃げ出そうとすればすぐにつかまる距離。



課長に促されてエレベーターに乗り込む。

課長が押した階は最上階。着ているものや身につけているものと同様の

課長のポリシーが伺える選択だと思った。

ちょっと豪華なマンションと言う感じだったので、油断していた。

箱を降りたそこは私の想像を超えた場所だった。

目の前にはもう一つのエントランス。

偶然止まった何処かの階とは全然違う。

課長は鍵を出して差し込むと、指紋照合をしている。

入った廊下のスペースには、玄関らしいドアが4枚だけ。

最上階は4軒だけの特別階になっているようだ。

課長の後を付いて歩いて一番奥の部屋のドアの前に来た。

「此処だ。」

鍵を開けてドアを引くと、中に入るように促された。

私の部屋とはあまりにも違う内装に、首を回せる範囲で眺め回した。

凄いよここ・・・・。



立ち尽くしている私を追い抜いて、課長はさっさと行ってしまった。

リビングで灯りが付くと、中の様子がもっとはっきりと分かった。

オフホワイトの壁と天井、白木の家具を使ったダイニングセットにベージュの革のソファセット。

装飾を廃したシンプルな室内は、だからこそ家具の良さが分かる。

帰るわけにも行かず、靴を脱いでそこにあったスリッパを履くと、リビングに入った。

セミオープンの対面キッチンに課長の姿があって、銜え煙草で何かしている。

香りから言ってコーヒーを入れているのだろうと思った。

レースのカーテンだけがひかれた大きい窓へと歩み寄り、その隙間から外を見る。

見知った高層ビル郡のシルエットと、夜間表示灯の点滅が見えた。

背後から食器をテーブルの上に置くコツンという音がして、

課長がキッチンからこちらの部屋に来た気配が感じられる。



「こっちに来て座れ。」と声を掛けられた。







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37万打記念夢として