NO.37 スカート
こんな日に限って・・・・と、は内心で悪態をついた。
先日買ったばかりの春物のスカートを、
暖かい日の光に誘われて初めて穿いたというのに、
こんな日に限ってゼミの担当の教授が大掃除をしたいと言い出した。
授業は厳しい人だが、人間的には優しく学生には好かれている教授のこと、
掃除には誰も反対しない。
それどころか、授業に遅刻や欠席した者は
それを1つ修正してあげるという「おまけ」が付いている。
学生がこぞって手伝いを申し出たのはいうまでも無い。
は遅刻はなかったが、風邪で休んだ日があった。
正当な理由が在って休んだといっても、
休んだ事を取り消すと言われれば悪い気はしない。
そんな理由から、も掃除を手伝うことにした。
ふたを開けてみれば、ゼミに通う学生のほとんどが掃除に参加していた。
教授はご丁寧に学生の出席を取り、
みんなの休みを1回づつ取り消してくれることを確約してくれた。
本当に優しい人だ。
男子学生が当然のように重労働を割り当てられていた。教授はそんなことにも厳しい人だ。
たち女子学生は細々とした片付けにおわれた。
教授は音楽に造詣が深いらしくやたらと楽譜を溜め込んでいた。
自分の学科でも無いのにそういうのはどうかと思うだが、
趣味なのだろう少しピアノを弾くらしいのでしょうがない。
楽譜を整理するには、広い場所がいるあの教授室では無理だと
講堂を借りることにして許可を貰った。
ダンボールに入れた楽譜はさほど重くは無いが、見事にばらばらになっている。
学科が音楽には無縁なこともあって、音符を追えるものが他に居なかった。
そんな訳で、は1人でその任に就く事になった。
幾つかの角を曲がっていく。
その角を曲がれば目的の教室はもうすぐの所だ。
曲がった途端、壁にしては柔らかい何かにドンとぶつかった。
箱を前に抱えていたので痛みなどは感じなかったが、
ぶつかった反動でその楽譜の入った箱を
廊下に落とし後によろめいて背中を壁に打ち着けてしまった。
「すみませんっ。」
相手も見ずにそれだけを声に出すと、よろめいた拍子に背中を打った壁からの痛みに
思わず瞼をきつく閉じた。
青痣になるかもしれない。
痛みに止めた息を吐き出して、落とした荷物を拾おうとしゃがんで
一番近くのモノに手を伸ばした。
「背中を打ったように見えましたけど、大丈夫ですか?
すいません、僕もよく前を見ていなかったものですから・・・・・・。
あの、さんでしたよね?」
弁解と共に自分の名前が相手の口から聞こえて、は思わず見上げた。
「あっ、はい。」
「僕です、ほら先日チケットを買わせていただいた八戒です。
あの後、食堂でもご一緒したんですが覚えていらっしゃいますか?」
は頷きながら返事をした。
「えぇ、ちゃんと覚えています。
八戒さんでしたよね・・・・先日はどうも。」
軽く会釈をすると箱から飛び出して散らばっている楽譜を拾い集めようと、視線を外した。
人の彼氏かもしれない男をどうこうするつもりは無いししたいとも思わない。
それはの恋愛倫理に反する。
今、これ以上のかかわりを持ちたくない相手なのだ。
この八戒と言う男は・・・・・。
それ程 自分のストライクゾーンど真ん中の男が今まで目の前に現れた事など無い。
今すぐにでも誘惑したい。
だが、人のモノには手を出さない。
それが例え相手からモーションをかけられたとしてもだ。
はそういう場面にしばしば遭う。
周りの女性を敵に回さないためにも 充分に気をつけなければならなかった。
だから 相手がフリーだと言う事を確認した上でしか 自分からは動かないのだが、
そんな事を考えているせいなのか『縁』を逃がす事が多いのだ。
亜矢は考えすぎだと笑うが、自分のポリシーを曲げるつもりはなかった。
散らばった譜面を拾っていると、視界に綺麗な手が入った。
綺麗だが大きくて筋張っていて男性の手だと分る。
その手が譜面を拾っている。
優雅な手つきにこの人はこんな体のパーツまでもが自分を惹きつけることに、
は忌々しささえ感じた。
悔しいくらいに・・・・。
そうこうしている間に、散らばっていた譜面は跡形も無く拾われてしまった。
自分が拾った分を箱に入れて、横から自分を拾った分を差し出した八戒が
を見て微笑む。
何か礼の言葉を言おうとしたが、うまく唇が動かなかった。
仕方なく会釈してそれに手を伸ばして受け取ると、自分のものと同様に箱に入れる。
その際には八戒に背を向けた。
「さん、そのまま動かないで下さい。」
「えっ?」
「いいからそのままで居て下さい。」
背中からかけられる八戒の声が、切迫している事に当惑したまま
は言葉どおりに動かなかった。
後から何か布ずれの音がする。
何の音? がそう思った途端
腰に後からシャツの袖が回されて前で軽く袖が結ばれた。
同時に「失礼します、さっき壁にぶつかった時だと思うのですが、
スカートが何かに引っ掛かって破れてしまったようなので、
僕のもので恐縮なんですがこうすればとりあえず隠せますから・・・。」
シャツの袖を結んでくれた八戒の手がの視界から後方に消えた。
聞かされた内容に思わず一拍遅れて反応する。
「えっ、酷いんですか?
これ今日おろしたばかりなのに〜。」
自分で後を振り返って見たが、既に八戒のシャツで覆われていて見えない。
だが そのシャツを取り除いてまで見る勇気も無い。
そののあわてぶりに右手で笑った口元を隠しながら「大丈夫です、酷くはありません。」と、
八戒は慰めの言葉を紡いでくれた。
「縫い目が引っ張られてほつれた感じなので、簡単に直せると思います。」
追加説明に思わず安堵の息を吐いて「ありがとう、これお借りします。」と、
ぎこちない笑顔を向けた。
「いいえ、気にしないで下さい。
僕も前方不注意だったんです。」と、八戒はズボンの後ポケットから
ペーパーバックを取り出して見せた。
「悟浄によく危ないって言われるんですが、構内なら大丈夫じゃないかと思って
つい廊下を歩きながらでも読んじゃうんですよね。
これからは、気をつけないと・・・・まあ 今回に限って僕にとっては
非常に大当たりだったですけど。」
八戒の言葉は最後の方を手にした本で口元を覆ったために、
には聞き取りにくくなっていた。
「えっ?
ごめんなさい、最後の方が聞こえなかったのでもう一回お願いします。」
意図的に隠した言葉が聞こえなかったので、は顔を上げる。
「いいえ、たいした事じゃないですから。
そのシャツ差し上げたいんですが、僕も気に入っているものなので
お役目を果たしたら返してもらえますか?」
「あっ、はい。もちろん 洗濯をしてお返しします。
でも 私がこうして使ったのに申し訳ないです。
もし よろしければ新しいものを買ってお返しさせて下さい。」
八戒が気に入っていると言ったシャツは、
何処にでもあるような白いワイシャツだった。
その下にTシャツを着ていたからこそ 上のシャツを貸す事が出来たのだ。
「さん、良かったらこの箱僕に運ばせてもらえませんか?
また 誰かにぶつかるといけませんから。」
廊下に置かれたままの箱に手をかけながら八戒が、
学内の女性人気ナンバーワンとうたわれる爽やかな笑顔を向けて申し出た。
「いいえ、そんなに重くも無いですし目的の教室はすぐそこですから大丈夫です。」
既に箱を抱えている八戒の傍により同様に箱に手を掛けながら、は断った。
その箱を受け取ろうと力を入れたを無視して、
八戒は彼女が進もうとしていた方へと歩き出した。
「さあ、行きますよ。」
があわててそれに追いつくと、今度はゆっくりと歩を進める。
が目的としていた教室へはすぐについた。
誰もいない教室へ入り手近な机の上に箱を置くと、「ありがとうございました。」と
八戒の背中にが礼の言葉を掛けた。
「後は1人で出来ますから、大丈夫です。本当にご迷惑をお掛けしてごめんなさい。
シャツは必ずお返ししますから。」と、ぺこりとお頭を下げて礼を言うと、
八戒の横をすり抜けて箱の中身に手を掛けて譜面を出す。
先ほどのアクシデントで更にばらばらになった譜面を机の上に並べて音符に目を走らせ
譜面の隅に何かを書き込んでいく。
八戒は黙って箱から譜面を取り上げて同様に音符を追うと、
が並べた譜面の書き込みを見てはその下に該当するものを滑り込ませていった。
黙って手伝い始めた八戒に、どう声をかけていいものかと思案顔で見つめていると、
そのの視線に気付いた八戒が 作業から顔を上げてニコリと笑った。
「僕にも手伝わせて下さい。
それにこんな人気の無い教室に貴女を一人にしておきたくないんです。
僕が傍にいてもお邪魔じゃなければ、虫避けに居させて下さい。」
八戒の言った言葉をが理解するのに少し時間を要してしまい、教室に沈黙が落ちた。
ようやくその意味するところを理解したが頬を染めたのを見て、
八戒が満足げな表情で笑った。
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25万打記念夢
