No.10 トランキライザー(抗鬱剤、精神安定剤)
「知足安分 1」(ちそくあんぶん)
もう居るはずの無い存在を感じていたい。
霊でも残留思念でも何でも良いから、私のそばに居て欲しい。
あなたを失ったことに慣れてしまったように見せている日常に比べると、
心は置いて行かれてしまった悲しみに浸ったまま何もしてない。
とても正直だ。
私はこの状況に慣れている振りをしながら生活しているに過ぎない。
会社では明るく笑い、過去にそんなことがあったことなんて素振りにも見せない。
だって、知っている人から見ればもう1年も前の事になるのだろうから。
私の中では、まだ1年にしかならないのに。
感じる時間の流れは、人それぞれだと言うけれど、
悲しみで溢れている私の時間はゆっくりと流れているようだ。
この1年は、人の何倍もの永い時のように感じて過ごした。
『今夜は遅くなるから、先に休んでいて。、おやすみ。』
電話での最後の会話はなんでもない日常の挨拶だった。
きっと私も『お休み。』を言って、受話器を置いたに違いない。
それからは、普段どおりにお風呂に入って就寝のための身支度をして
何も疑問に思わずに布団に入ったと思う。
彼が遅くなっても来るのは当たり前のこととして受け止めていたのだから。
2人で居れば寒くなんか無い布団の中も一人では冷たい布団の方が勝ってしまう。
それでも少しづつ温まってきて疲れた身体を休めていると、
いつも間にか眠りに落ちていた。
突然に降りかかった災難に彼が苦しんでいるとも知らずに・・・。
一番愛しい存在や身近な人に何かがあれば、否 何かが起こりそうなときには、
『虫の知らせがある。』とか言うのを聞くけれど、あれは嘘だと思った。
だって、私は人に知らされるまでその事を知らないで過ごしていたのだから。
まして、私は社会的に何もない立場だったから、連絡が来たのも本当に遅くて
彼の携帯の通話記録を見てくれた妹さんの気転によるものだった。
一度会ったことがあって覚えていてくれたのだ。
そうでもしなければ、突然にいなくなった彼のことを知ることは、
永遠に知らないままだったかもしれない。
夜中に起されたから本当に着の身着のままで病院に駆けつけると、
もう彼はそのための処置が終わって綺麗にされてしまっていた。
電子音が鳴る機械や点滴やチューブでも付いていれば、
望みも安堵も出来たかもしれないのに・・・・・。
生きているって。
取り乱して泣いているお母さんらしき人と、それを支えているお父さんらしき人。
そのそばに唯一彼の家族では会った事のある妹さんの顔を見つけて、
おずおずと近寄って行った。
彼が横たわるベッドへと近寄ると、その顔の上にかかっている白い布をそっと
外して本当に眠っているようにしか見えない顔を見せてくれた。
一瞬で凍りついた心では泣く事も声を出すことも出来なくて、
少しづつ冷たくなる彼の手の上に自分の手を重ねていた。
「ほぼ即死だったそうです。
外傷ではなく脳への打撲が直接の原因だそうですから、
苦しいとか痛いとか感じなかっただろうって・・・・先生が。」
その後も事故の様子とか原因とかを説明してくれていたようだけど、
何も聞こえないままに過ぎてしまった。
まだ、正式に婚約や結婚や入籍をしていたわけではなかったので、
彼も私もそのつもりではあったけれど、私はただの友人としてしか
彼の葬儀には参加させてもらえなかった。
「息子と付き合ってもらっていたようですが、もう忘れてやって下さい。
貴女はまだ若い。
これからも生きて、息子の分まで幸せになって欲しいんです。
あの子もそれを望んでいるはずです。」
忌明けの法要のあと、お父さんは私にそう言って頭を下げた。
言外に、もう息子の事でかかわらないで欲しい・・・・・そう私には聞こえた。
彼のことを思い出して話をすることも、またそれを聞いてあげることも
私には許されていないように思えた。
私しか知らない彼の顔だってあるはずだし、家族としての彼のことも
話して欲しいと思っていたのに。
自分たち家族だけが彼のことを偲び思い出に浸れるのだと、
そう突き放された気がした。
眠れない毎日が続く。
眠れば彼のことを夢に見て、その間だけは幸せでいられるのだけれど。
眠りから覚めたときに思い知る現実の重さが怖くて。
夢を見続けることも出来ない。
覚めたときに思い出す彼がいないという事実も受け止め切れない。
自分ではどうしようもない状態。
それでもその状態を自分でどうかしようと思って、
スポーツもしたしお酒も飲んだ。
自分の身体をそんなもので騙して睡眠をとる。
身体だけは騙せても心は騙せない。
病んだ心のままで、生きていくために眠る毎日。
がんばっても、がんばっても、そろそろ騙せなくなってきている。
そんなことを感じるようになっている。
無理にでも取れていた睡眠が、段々短くなっていた。
目の下の隈を化粧では誤魔化しきれなくなった頃、
親しい友人が病院に行くように進めてくれた。
身体のどこかが悪いわけでもないのに、病院に出向くというのは勇気がいる。
それでも眠れないことは確かなので、睡眠導入剤でももらえればいいだろうと
軽い気持ちで行くことにした。
診察はいたって簡単で、問診にこそ重きが置かれている。
爽やか系で優しい笑顔の医師が話を聞いてくれる。
「忘れる必要なんて無いですよ。
周りの人がなんと言おうと、さんが忘れたくないなら忘れる必要なんて無いんです。
彼だって貴女に覚えてもらっている方が嬉しいと思うでしょう。
だから、彼のことを思い出すことを怖がらないで下さい。
素敵な思い出や楽しい思い出を思い出して、懐かしむのも大事なことです。
彼のいなくなったことを、悲しむのも大事なことです。
悲しんではいけないとか、思い出しては駄目だとかなんて、
誰もさんに強制することは出来ないですし、
たとえ誰かがそう言っても従う必要なんて無いんですよ。
大好きだった彼を思い出せるのなら、思い出してあげなさい。
夢でだけでも会えれば会うのもいいじゃないですか。
自分で自分の心にブレーキをかけるような事をしないであげて下さい。
そんな風に考えるのが一番良くないことなのですよ。
軽い薬を出しますから、それを飲んでみましょう。」
病院を出て晴れた空を見上げた。
今聞いたばかりの医師の言葉を思い出して、少し気持ちが軽くなった。
彼を思い出すことは罪ではないといってくれたのが、何よりも嬉しい。
だから眠って彼を思い出すことが自分のひそかな楽しみになるのに、
それほどの時間はかからなかった。
それは一つの儀式の様にして支度を整える。
彼の好きだった香りを身にまとって、一人で布団に入る。
少し寂しいのはそこまでで、後は瞼を閉じて彼を思い出すだけ。
忘れたくない彼の笑った顔やちょっとした仕草まで全てを思い出せばいいだけ。
そして、少し都合のいい思い出だけを繰り返し夢に見る。
治療で出された薬が効いたのか、医師による精神的な治療が効いたのか、
徐々に昼間も以前と同じような気持ちで生活できるようになっていく。
彼を思い出すことを怖がるのではなく、愛しく大切な時間として思い出せるように。
元々明るい性格でそこが好きだと言ってくれていた。
彼が好きだった自分に戻れるような気がして、笑顔でいることが多くなった。
そう、いつまでも悲しんでいたら彼はきっと心配する。
だったら彼が好きだった私でいなければならないと、そう思った。
彼の為にも・・・・。
彼を失って2度目の春を迎えようとする頃。
所属する課の課長が交代になった。
今度の課長は凄くやり手で、切れ者だと前評判も高い。
着任後、「今日からこの課を預かる玄奘三蔵だ。」と自己紹介をすると、
「この課の事がオールマイティーに分かるのは誰だ? 一人専属で俺について欲しい。」
その言葉にこの課で一番可愛い彼女が自信ありげに手を上げた。
課長を見たときから変わっていた彼女の目の色に、
『やっぱり』と他の女子社員のため息とも取れそうな息が吐き出される。
独身であの年齢の課長なんて異例の出世だ。
彼女でなくてもあわよくばと狙う子がいたっておかしくない。
まあ、面倒なことは引き受けてくれそうな彼女に任せてしまうのに限ると、
私は自分の席に戻って仕事に就いた。
今までの業務経過の資料を読むために課長は会議室の1つを使っていた。
会議室に2人きり。
彼女が自分をアピールするのに邪魔なものは何もない。
課の男性社員ばかりではなく他の課の社員やお客様からもちやほやされる彼女のことだ、
きっと簡単に落とせてしまうんだろうな・・・・と、キーボードを打ちながら考えていた。
バタンッ。
廊下からドアを力強く開ける音がしたかと思うと、パタパタと走る足音が聞こえてきた。
廊下を曲がると給湯室かトイレの方へと消えたような気配。
あれは女性の足音だった。
自分が言い寄る前にセクハラでもされたのだろうか?
そんなことを推理していると、今度はいかにも男性の足音と言う感じの音で廊下を
こちらに歩いてくる足音が聞こえてきた。
「おい、あれ以上のましな奴はいないのか?」
上着を脱いでYシャツになった玄奘課長が、腕組みをして仁王立ちに立っている。
そのいかにも不機嫌そうな顔を見て、女子社員では一番年長の人が
「では私が。」と腰を上げた。
彼女なら結婚しているしこの課でのキャリアもある、前の子のような事は無いだろう。
そう思って安心した。
新しい課長に、出来そこないばかりだとは思われたくない。
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*「知足安分」=分不相応な高望みをしないこと。
35万打通過記念夢

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