薄蘇芳 2(雷汞 25)
が落ち着いたのなら、部屋に戻ろうかと思った。
だが、せっかくの2人きり。
早々こんな時間はないだろうと思うと、腰を上げる気にならねぇ。
明日をも知れない身と言ったら大げさになるが、それでも生身の人間だ。
何が起こっても不思議じゃない。
そう思うと、この時間がたまらなく貴重な気がした。
「の流派は、黄櫨流(はじりゅう)といったな。
確か宝刀が伝わると聞いているが、それか?」
話題をそらして雰囲気を元に戻そうと、話を振ってみた。
こんな時には、人よりは優れている知識量がありがたい。
「はい、そうです。
黄櫨流という名は、この剣、海鏡刀から由来しています。」
彼女はそう言って腰に携えていた剣を下緒を外して俺の前に置いて見せた。
「いいか?」
「えぇ、どうぞ。」
紙がないので、懐に忍ばせている手拭を口にくわえ、
海鏡刀を目の前まで持ち上げて抜刀しようとした。
ぐっと力を入れるものの刀が鞘から抜けてこない。
「ん。」
渾身の力とは言わないが、遠慮ない力で引いてみた。
それでも鞘が外れない。
「私以外抜けないのです。」
その様子にがわずかに微笑んで言った。
少しうれしそうな、誇らしげな表情で。
「三蔵・・・さまがどんな法力を持っていたとしても、
たぶん駄目だと思います。
たとえ真言を唱えたとしても、抜けません。
私とその海鏡刀とは『血』で契約をなしています。
ですから鞘から刀身を抜けるのは私だけです。
抜いた後、私以外の誰かによって使われたとして、
刀として使えるのかどうかは分かりません。
ただ、その刀では私は切れないと祖父から聞きました。」
抜けないものはどうしようもない。
鞘に収めたまま、彼女の手の中へと返した。
世の中にはいろんな刀が存在する。
黄櫨流が桃源郷でも有数の剣の流派なら、そんな刀を一振りくらい
持っていても少しも不思議じゃない。
むしろ当たり前のように思う。
血での契約もありえる話だ。
それはどこか天地開眼経文と三蔵法師の関係に似ている。
その力を使うことを許すものを限定するのは、それが危険なものだからだ。
ただ力を使おうとする者には、許されない。
何か限定解除する要因が必要になる。
それが、この海鏡刀の場合は、の家の血筋なのだろう。
何か特別の理由があるのだろうと思う。
たいていの場合、それは非常に古い昔のことが多くて、
正確に伝えられていることは少ない。
伝説などとして残っていれば幸運と言えるようなものだ。
返した刀を胸に愛おしそうに抱いて、その鞘を華奢で白い手が撫でる。
まるで生きているものを撫でるように。
「この海鏡刀には、精霊が宿っていると祖父が言っておりました。
祖父も父も歴代の宗家に勝るとも劣らない剣豪であったと、
私は誇りに思っております。
ですが、その精霊はついに自分たちを真の主に選ばなかったと言っておりました。
ただ、強いだけではない何かが必要なのだろうと。
契約は結べたもののこの刀の力が全て引き出せたかと言うと、
そうではなかっただろうと。
きっと、秘めたる何かがあるはずで、それは精霊が選んだ使い手にのみ
許されることなのだろうと。
私は今のところ何も見えていないので、きっと選ばれていないと思います。
私の子供か孫でもそうなったらいいなぁと思うんです。
そうしたらそれを祖父や父に話してあげることができますから。」
の話を聞いて、彼女が海鏡刀に持っている感情は、
家族愛に近いものなのだと、そんな気がした。
それは、俺には到底理解できない感情。
もう、ずいぶんと昔に理解しようとすることすら、やめてしまったもの。
それを彼女は、家族が絶え、ただ独りだけになっても
胸に抱いて愛しんでいる。
浮かべている笑みは、慈愛に満ちているような気がする。
そう、弥勒菩薩のような微笑。
間違っても観世音ではない。
「まあ、これからのほうが長いんだ。
が選ばれる可能性もあるだろ。」
海鏡刀を見ていた彼女が俺を見て、クスッと笑った。
「三蔵さ・・・ま・・は、お優しいですね。
私など、この海鏡刀に選ばれるとは思えませんのに・・・・。
祖父も父も私には才があると申してくれました。
授かった子供は私1人。
どうしても剣士に育てねばなりません。
今思えば、女の私のことを励ましおだてる事で
何とかしようとしていたんだろうと思います。
でも、三蔵・・・にそう言われると、そんな気になります。
ありがとうございます。
そうですよね、これからも精進して行けば、
私を真の主と認めてくれるかもしれませんよね。」
「あぁ。」
俺の気休めの言葉に、うれしそうに微笑む。
そして、海鏡刀をもう一度抱きしめた。
その光景に胸の奥に鈍い痛みが走る。
刀に嫉妬を覚えるなんて、どうかしている。
八戒あたりが見たら、何を言われるか・・・。
それに先ほどの話を気にしているのか、は敬称を気にするようになった。
本人が言ったようにすぐには無理だろうが、気にしてくれているだけ良いだろう。
「夢はその家族のことか。」
ほぐれて来たところで、ここに来た核心に触れた。
の体がビクッと反応したのが分かる。
「逃げは許してくださらないんですね。」
「あぁ。」
は抱きしめていた海鏡刀をテーブルの上に置くと、
大きく息を吐き出した。
「あの日のことを繰り返し夢に見ます。
台所で倒れていた母。
狂った父に斬られて私の腕の中で息を引き取った祖父。
そして、この海鏡刀で私が斬った父。
あの父を切ったときの悲しみは、きっとこの海鏡刀にも伝わったと思います。
あの嫌な感触を何度も繰り返した日には、どうしても夢に見ます。
けれども、さっき三蔵・・様が言われたとおり、
隙や甘い顔を見せれば私の方が命を取られます。
父の狂った原因と汚名を晴らすまでは、やらなければならないと思っています。
昼間は心にふたをして、見ない振りでやり過ごしています。
悟空や八戒のおかげで、思い出すことも少なくなりました。
けれども、夢の中まではコントロールできません。
いいように振り回されて、夢に支配されてしまうんです。」
うつむいたの肩が小刻みに震えている。
「怖いか・・・・・・眠るのが。」
俺の問いにうつむいたままで首を縦に振った。
灰皿に吸いさしのタバコを押し付けてもみ消した。
を椅子ごと俺に引き寄せる。
軽くもないが重くはない。
うつむいてうなだれた肩に手を回して、こっちに引き寄せる。
彼女の頭を俺の胸に押し付けた。
「な・・・何を・・・」
面食らって言葉が出てこないらしい。
「俺にその恐怖心を預けて、寝てみろ。」
「そんなこと・・・・」
「出来る。」
そのままじっとしていると、の肩から力が抜けていくのが分かった。
人の温かみというのは、癒しと安心感を与える。
家族を失ってからこっち、人の温もりに触れずにいただろう。
だから、今はたぶん誰でもいいから温めてやれば落ち着くはずだ。
八戒はそれを感じて何とかしようとしていたんだろう。
誰でもいいはずなら、それこそ八戒だって悟空だって良かったはずだ。
悟浄でも良いだろうが、八戒がそれを許すとは思えない。
それをわざわざ俺にやらせたのは、俺の気持ちを知っているということか・・・・。
厄介だな。
思わずため息が出た。
の体から力が抜けて、寄りかかってきた。
昼間は戦闘で疲れ、夜は夢に眠りを邪魔され、眠れていないのなら
当然のことのように思える。
背の刀と海鏡刀を彼女のひざに乗せ、
その身体ごと横抱きに抱き上げた。
普通なら気づいて起きるのだろうが、俺の体温になれたせいか
深く眠っているらしい。
そのままゆっくりと階段を上って部屋の前に着いた。
執筆者:宝珠
2006.03.17up

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