桔 梗 3
珍しく長風呂だったせいか、部屋の空気の冷たさが心地良い。
持って来ておいた下着とジーンズを身に着けて、
タオルを肩からかけその端で髪を無造作に拭きながら、ドアを開けて出た。
ドアの前にはに指定したベッドがある。
見ればそこに腰掛けて、文庫本を広げて熱心に読んでいる。
俺が出てきたのに気付いて、視線をこちらに向けた。
手の中の本をパタンと閉じると、「先ほど八戒が、三蔵様を訪ねて参りました。
お風呂だと言ったら明日も予定通りだと伝えてくれと。」と、
言伝を頼まれたのだと、口にする。
「分かった。」と、了解した旨を言葉にした。
『三蔵様』
は俺のことをそう呼ぶ。
別にそれが嫌なわけじゃない。
地位を考えれば妥当な呼び方なのだろうと思う。
がそんな敬称無しで呼んだのは悟空が一番最初だった。
まあこれは予想も出来たし、いつものことだ。
それに便乗するかのように、八戒もその輪に加わった。
これも予想通り。
保父として園児の面倒を見るのは当たり前だと言わんばかりに、
新入園児の世話に甲斐甲斐しいところを見せているのだから、
慣れたらそう呼ばせるだろうと、想像できる。
女に見境が無い悟浄が、何時になくには距離を取っていた。
多分、初めて会った日に禁忌の子である証の髪と瞳を見て泣き出したせいだろう。
『泣く女は苦手だ。』と言うのが、悟浄の言い分だから。
それに、八戒と悟空のガードがやけに固かったことも一因だろう。
悟浄の普段の生活がどんなものかは詳しく知らないが、
一緒に住んでいたからこそ、八戒はを悟浄から遠ざけたに違いない。
狭いリアシートの上で、接触しないようにとか、会話しないようになんて事は
出来ないから、ガードと言ってもたいしたことは無い。
それでも が悟浄と2人きりになるようなことはなかった。
霧の森で戦闘になった時には、相打ちをしないようにとそれぞれが距離を取ったが、
霧が晴れて戻ってきた悟浄の後から、が見えたときの八戒の気配は、
怖いほどだったのを覚えている。
無事だったことで、殺気立ってだけはいなかったが・・・。
今夜だって、出来れば自分がと相部屋になろうと思ったに違いないが、
園児たちを見張る都合上、俺を選んだに過ぎない。
きっとこれから2対3の部屋割りの時には、こうした振り割がなされるだろう。
顔ぶれが変わらないのだから、仕方が無い。
本を膝に載せたまま、が俺を見ている。
「何か用か。」
シャツに袖を通しながら尋ねる。
考えてみれば、俺だってとまともに会話したことが無い。
まあ、俺の場合話さなければならないようなこともないから、
会話の無いことは当然とも言えるが。
「この旅の目的は八戒から聞きました。
三蔵様は、仏に帰依(きえ)する身でなぜこの旅に?
禁である殺生を犯してまで、西へ向かわれるのは
蘇生実験阻止の他に何かあるのですか?」
八戒は説明してやらなかったのか・・・・と、イライラした気分になる。
「目的を聞いたんなら、それ以上のことはねぇ。
使役されているから、その命に従っているだけだ。
それに死なねぇ為には、相手を殺すしかねぇだろう。
くだらねぇことを聞くな。」
怒鳴りはしないが、十分に怒気を含んだ言葉での返答になった。
分かりきったことを聞くんじゃねぇ。
そう目で威嚇してやる。
「そうですか。」
分かったかどうかは知らないが返事が帰った後は、沈黙が落ちた。
今の会話らしくもない会話で、は俺との会話をあきらめたらしい。
もっとも、あれ以上がしつこく話しかけられたりしたら、
悟空と同様にハリセンで叩いていたかもしれないところだった。
膝に置いていた本を荷物に片付けると、上掛けをめくってシーツとの間に
身体を滑り込ませている。
「三蔵様、おやすみなさい。」
寝支度が整ったのだろう、俺に小さな声で挨拶を済ませると、
背を向ける格好で横になった。
「ん。」と、だけ口すらも開けないで応える。
部屋の灯りを消したわけではないから、すぐには眠れないだろう。
俺が新聞を動かす音やタバコの火を点ける音しかしない。
は知らないだろうが、俺が日常の挨拶に反応することは珍しい。
八戒や悟浄でもいたらそれを何か言葉にしたかもしれない。
お互いが相手にどう反応していいのか分からない。
何を話題にしたらいいのか、どう話しかけたらいいのかも戸惑う。
そう考えれば、先ほどの会話はなりの歩み寄りだったろうと思う。
と、今頃になって、そんなことを考えた。
別に親しくなりたいわけじゃない。
同行させているのも使令が下っているからで、足手まといにさえならなければ
別にジープから降ろそうとは思っていない。
戦力として使えるのなら尚更だ。
女と言う人種に不慣れなせいもあって、出来るだけ避けているのは否定しない。
むしろ面倒ごとを避けていると言った方が正しい。
そしてどこかぎこちないの態度も益々壁を増やし、
それを厚くするのに役立っている。
手を伸ばせば触れるくらいの距離にいると言うのに、遠い存在の彼女。
悟空や八戒と親しげに話す時に、たまに笑顔を見せることがある。
それは小さな花がほころぶような儚い笑顔。
まるで風に煽られたら消えてしまいそうに見えるような・・・。
何故か側で見ていると心が和らぐのを感じる。
もう少し見たい。
出来れば、その笑顔が自分に向かっていればいいと・・・・。
こんな思いを抱くのは、俺としてはかつて無いことだ。
そして、こんな分析をしているとこが、既におかしい状態だ。
らしくない。
絶対、俺らしくない。
悟空は男女の機微に疎いから、感づくようなことは無いかもしれない。
だが、色事に詳しい悟浄やわずかな変化も見逃さない八戒には、
隠せないかもしれない。
それこそこんなことを考えているのが知れたら、
何を言われるか分かったもんじゃない。
自分の心のことなのに、なぜそんなにもが気になるのか
推し量ることが出来ない。
結果、苛ついてしまう。
に罪は無いと分かっていても、先ほどのように邪険な物言いしか出来ない。
そんなつもりは無いのに・・・・だ。
物心ついた時には、寺での生活が当たり前のようにそこにあった。
他の選択肢はなくて、僧として生きるしかなかった。
もし俺を川から拾ってくれた者が農夫であったなら、
今頃当たり前に農夫になっていたかもしれない。
でも、お師匠様だった。
光明三蔵法師その人だった。
『声が聞こえたんです。』と、微笑まれた在りし日の姿は、今もこの胸にいつもある。
今更、それをどうこう言うつもりは無いし、それでいいと思っている。
お師匠様があって初めて、俺と言う存在が成り立っているのだから、
他の人生なんて俺にはありえない。
当然のように僧として学び、修行をし、それを当たり前に受け入れてきたが、
それが役立たないこともあるのだ・・・・と、思った。
法力や僧としての修行や知識では解決しない気持ち。
いつの間にか、のたてる息が静かになり、動かなくなった。
どうやら眠りに就いたらしい。
一日中、ジープで走る。
その途中で、吠登城からの刺客の相手をすることになる。
時と場所を選ばないそれは、簡単に方が付くこともあれば、
その日の予定を変えてしまうほど時間がかかることもある。
夕方に町に着けたら、こうしてスプリングが悪くてもベッドで眠れることが出来るが、
町に着かなければ野宿だ。
適当な場所がなければ、そのままジープの上と言うこともある。
だから、今夜のように満足な食事を取り、身体を清めることが出来て、
安心して眠れる寝床があるのなら、ゆっくり休んだ方がいい。
時として、安眠を妨げるように刺客が夜襲をかけてくることもあるのだ。
休める時に休むのも、大事なことだと思う。
あの華奢な肩や身体で、俺たちの旅に付いて来ているのだ。
だけど、俺との会話を早々にあきらめられたのもなんだか面白くない。
と話がしたかったのか?と、問われれば決してそうではないのだが、
とりあえず同室だからと話しかけられたような気がしないでもない。
下僕3人と同様に話せとは言わないが、
これでも一緒に旅をしているんだ、何かあるだろう。
俺だけ蚊帳の外の扱いが気に入らない。
じゃどうしたらいいのかと訪ねられたら、応えられないのだが。
自分でも良く分からない。
手に余るこういった感情は、面倒なだけだ。
無視をするに限る。
そうだ、無視だ無視。
俺はそう決め込むと、燻らしていた煙草を灰皿で消して新聞をたたんだ。
部屋の灯りのスイッチを切って灯りを落とす。
窓のカーテンは閉めない。
外灯や月明かりが入るようにしておく。
暗闇での敵襲に備える為、夜目に慣らしておく必要があるからだ。
外からの灯りに目が慣れてしまえば、部屋に灯りがなくても
敵か味方かの区別は付く。
妖怪か人間かも・・・・・。
襲ってくるのは妖怪ばかりじゃない。
ふと、の寝顔に目をやる。
今は上を向いていて、俺からは横顔が見える。
穏やかな寝顔。
向こうがこちらを見ていなければ、どれだけでも見ていられる。
普段はゆっくりと見ることが叶わないの顔を、
何とはなしに見つめることが出来る。
突然、自分の口元がわずかに弧を描いているのに気が付いた。
どうやら俺はを嫌いではないらしい。
まだ自分でもこの感情が何なのかは分からない。
それでも 彼女のことを旅を共にする一員だと受け入れているらしい。
いずれ、自分でも説明の付かないこの気持ちが、
なんなのか分かる日が来るかもしれない。
それまでは、この危険な旅で命を落とすことが無いようにと、
彼女の顔を見ながらそんなことを思った。
執筆者:宝珠
2005.05.06up

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