深 緋 1





あっ、まただ。
最近 どうも身の内で何かがざわめくような感じがする。
以前はそんなものを感じた事など無かった。
それが此処の所 訳の分からないそれを感じる間隔が 
短くなって来ているような気もする。
嫌な感じではないが どうしても それに身を任せる気にはなれない。
おかしな感覚。
すぐ隣を歩く父親にそれを尋ねると、同じような事を感じていると言われては安堵した。
自分ひとりなら 病気かと心配になるが、父親も同様ならそれは病ではない。
しかし 寒気でもなく 痛みでもない この感じはなんだろう・・・・。
イライラするとでも言えばいいのだろうか、目の前の現状を壊したくなるような
衝動がこみ上げてくる。
言葉ではうまく説明できなかったが、父親もそれを感じているのならと 
は気にとめもしなかった。
もっとも 判ってどうにかしようとしたとしても どうにもならなかっただろうが。
人は体内にある種の栄養素が足りなくなると それを警告するために信号を出すと言う。 
この場合 カルシウムの可能性が高いと、は的外れな考えに至った。
「家に帰ったら お母さんに煮干でももらうかな。」
そんな独り言を は夕焼けにつぶやいた。



の父は桃源郷で言う所の禁忌の子だ。
だから 赤い髪に赤い瞳を持つ。
だが 人間である祖父が武術家だったので、父も武人としては一流の腕前だ。
妖怪も人間も分け隔てなく共に幸せに暮らす桃源郷では、
時々 種族間を超えて愛し合うものがあり、稀に子孫を残す。
天の理を超えたその子供を『禁忌の子』と呼ぶのだ。
その禁忌の子の父は 幼馴染の人間の母と結婚した。
はその2人の間に出来た一人娘だ。
だからの身体を流れる血には 4分の1だけ妖怪の血が混じる。
でも それに何か意味があるとは思ってなどいない。
自分は普通の幸せな家庭に生まれ育った・・・・はそう思っていた。



祖父と父が守る剣の流派は『黄櫨流』(はじりゅう)と言う。
この桃源郷では 結構有名な流派で、武人の輩出も多い。
その流派名は 家元にだけその使用が許される宝刀の名前に由来する。
許されると言うよりも刀が持ち主を選ぶのだと伝えられている。
妖剣の名は『海鏡刀』と言う、『海鏡』とは海に生息する貝『月日貝』の別名だ。
その月日貝は 片面が黄白色もう片面が濃赤色という珍しいもので、
その色から黄白色を月に、濃赤色を太陽に見立てて名が付いているのだという。
父の厳しい稽古との自主的鍛錬の成果で は道場の高弟でも敵わぬほどの
剣の使い手となっていた。
祖父を凌駕し 父からも3本に1本は取るほどに・・・・。
20歳の誕生日を迎えて、父は娘に妖剣『海鏡』の持ち主としての誓約をさせた。



精進潔斎をして禊を済ませた早朝の道場。
正面に父、側面に祖父の見守る中、父は三方に乗せた海鏡刀を
の前に静かに置いた。
、ではこれから そなたとこの海鏡刀の誓約の儀を執り行う。
良いな?」
ピンと張り詰めた朝の空気の中、父の声が響いた。
「はい、お願いします。」
問われたは、そう返事をして頷く。
父親がその剣柄を持って海鏡刀を抜き、自身の指先を刃に当てわずかに切らせると
刃に自分の名前を血のにじむ指先でなぞる。
そうして 以前の誓約を無効にする旨を、海鏡刀に宣言した。
その後 と同様にして清めた水を刀の刃に静かに掛けてゆく。
父親は刀を鞘に静かに納めると、もう一度抜刀しようとしたが、
懇親の力を持ってしても 刀はびくともしなかった。
「よし、これで俺の海鏡刀との誓約は無効となった。」
祖父と父は互いに顔を見合わせて 確認しあうように頷いた。



父親の手からへと海鏡刀が渡された。
 抜いてみろ。」
が剣柄に手を掛けると、身の内に不思議な感覚が湧くのを覚えた。
父親が抜けなかったものが、自分に抜けるわけはないとは想っていた。
だが、海鏡刀はその予想を裏切って鞘からするりと抜けてしまった。
「どうして?」
は思わずつぶやいた。
「刀がお前を次の主として認めた証だ。
刃で軽く指を切ってお前の血で刃に名を記し、『我が血我が名を持って誓約する。』と
宣言すれば 海鏡刀とお前の誓約は完了する。
今後、以外は海鏡刀を抜けるものはいないし、その刀ではお前は切れない。
その刀には、精霊が宿っていると言う。
だが その精霊は刀に相応しい主を選ぶと言うことだ。
俺もお爺様も残念だが その精霊には選ばれなかったらしい。
海鏡刀は使えたが、一度も精霊は見たことがない。」
父親は少し寂しそうに笑った。
父親の言葉に従い、は海鏡刀との誓約を成した。



、これからはその海鏡刀の主として、恥しくない剣客の道を歩むのじゃ。
良いな?
わしもお前の父親も それなりの腕はあったと思うが、ほどではない。
女のお前に黄櫨流を継がせるのは、正直迷ったがそれは女だからであって、
剣の腕のためではない。
剣士としてだけなら は既に我々を超えているでのぅ。」
横にいた祖父がに優しく微笑んでそう話した。
ただ1人の孫が可愛くて仕方がないのだが、流派の血も絶やすわけには行かない。
まして この海鏡刀は今のところ血での契約を望んでいる。
同じ血統が絶えるまでは、受け継いでいかなければならない。
「お爺さん お父さん、ありがとうございます。」
は刀を鞘に収めると、両手を突いて頭を下げた。 



その日。
は海鏡刀を携えて 町から離れた所にある湖に来ていた。
この湖の近くにある森は、幼い頃からの自己鍛錬の場になっていた。
舞い散る木の葉を 敵の刃や飛び道具に見立てて剣の稽古をし、
時に走り 樹に登り 動物を追って身体を鍛えた。
雨の中 暑さの中 静寂の中で瞑想にふけったりもした。
その日もそうして過ごしていたが、突然 あの見の内をざわめかす感覚に襲われた。
しかも 今日のはすぐには収まらなかった。
乗り物に酔ったように 胸が気持ち悪く嘔吐感がする
気分が悪い。
「どうして・・・・何これ。」
持っていた木刀を落として 地面に四つん這いになると、
肩で息をして何とか納めようとした。
気持ち悪さに目を閉じると、何処からか声がしてきた。
「意識を強く保て、このまま闇に持っていかれるな!
大きく息をして 心も身体も清浄に保つのだ。
身体を横たえ仰向けになり 海鏡刀を手に持ち胸の上に置け。」
なんだか分らないがはその声に導かれて 言うとおりに行動した。



は暫く その声の指示に従い、それだけに集中して粟立つものが静まるのを待った。
幾分 気持ち悪さや苦しさが遠のいたような気がした。
静かに目を開けると、いつもの森に自分ひとりだけだった。
他には誰も居ない。
鍛錬中のは気を張っているので、誰かが自分の間合いの中に入ってくれば
否が応でも身体が反応する。
例えこの苦しさにそれが一時的に麻痺していたとしても 耳元で囁かれるほど
近くにいたのであれば、人の気配に気付かないはずはない。
は大きく息をすると、上半身を起こしてみた。
やはり誰も居なかった。
それに 例の気持ち悪さはもう何処にも感じなかった。
「今の何だったんだろう?
今日はここまでにして家に帰ろう。」
そうつぶやいて はあることに気がついた。



自分が今感じていた気持ち悪さは、父親も感じていると言ってなかっただろうか?
数日前の会話を思い出して、は嫌な胸騒ぎに襲われた。
妖怪であった祖母は何年か前に他界していた。
だから それが妖怪の血のせいだとは、この時のには思い当たらなかった。
ただ 近親者だけが感じる事の出来る何かを感じたに過ぎないのだろうが、
とにかく出来るだけ急いで家に帰った。
もし 何かがあったとしても 祖父と父がいれば 人間である母は2人に守られて
何ともないだろうと思ったし、手強い相手でも2人なら負けるとは思わなかった。
「思い過ごしだよね。」
そう自分に言い聞かせるように言ってみても少しも落ち着かない。
家に近づくほどにその嫌な感じは 酷くなっていくように思えた。



道場をかねているの家は 町の外れにある。
通り抜けするつもりで足を踏み込んだ町の光景に、は絶句して立ち止まった。