百塩茶 3
「あ〜ぁ、俺すげぇ腹減った。」
本当に空腹なのだろう、悟空が力の入らない声でそう訴えた。
「今夜は何とかベッドで眠れそうですから、その前に夕飯ですね。」
オレンジ色が濃くなってきた太陽の下、陽炎に揺られるように街の影が見えてきて、
それをジープのフロント越しに視界に捉えて悟空に声を掛ける。
その説明に身体を前に乗り出すようにして、自分の目でも街を確認すると、
「良かった〜、これで今夜は腹いっぱい食べれる。」と、
心底安心したような声音で言った。
「猿はいっつもそればっか、進歩ねぇっつ〜の。
たまには違うこと言ってみろ。
あっ、無理か・・・・猿だもんなぁ。」
その様子を悟浄がからかう。
まったく、進歩が無いのは悟浄も一緒だと思うのだが、
悟空はそれに気づいていない。
そのおかげでいつもと同じような喧嘩が始まりそうだ。
「猿って言うなって、いっつも言ってんだろ!」
案の定、お決まりの台詞で悟空が喧嘩を買う。
やれやれ、始まりましたか・・・・思わずそうため息を吐きそうになったところで、
今までには無い展開が起こっていることに気がついた。
いつもならそこからが本番とでも言うように、悟浄と悟空の言葉の応酬が始まるのに
それが何故か聞こえてこない。
後ろを振り返るわけにも行かずバックミラーの中を覗いてみたが、
それでは何が起こっているのか見えなかった。
三蔵も不審に思ったのか珍しく顔を後に向けている。
「三蔵?」
声を掛けてみたが三蔵が何も言わないので、仕方なくジープを停めて
何が起こっているのか後ろを見た。
が悟浄と悟空の2人ののど元に小さいながらも鋭い切っ先の剣を当てている。
ナイフほどの大きさのそれは、護身用にでも持っているものなのだろう。
片方1人だけならいざ知らず、両手で2人同時にジープの上でとなれば
悟浄も悟空も黙るしかない。
その手を押さえることもせず、なすがままになっているところを見ると
どうやら不意打ちを食らったらしい。
悟浄は両手を軽く挙げて降参のポーズを取った。
悟空はただ驚いて固まっている。
「すいません、あれだけ多くの命を奪った後なので少し静かにして下さい。
まだ、落ち着いていないんです。」
は誰にも顔を向けずに小剣を腕に巻いているサポーターのようなケースにしまうと、
大きく息を吐いてシートに座りなおした。
動けなかった両脇の2人も元通りに座っている。
その前と比べると、からは間を空けているように見えるのは、
多分見間違いではないだろう。
言われて見れば、妖怪との戦闘になれて日常化してしまっている自分たちに比べると、
彼女は確かに不慣れなように見えた。
ここへたどり着くまでにどの位一人で旅してきたのかは分からないが、
昼間に普通に旅している分には、そんなに戦闘など起こる事は少ない。
せいぜいが彼女をカモにした盗賊とか、女と見破った人攫いといった所だろう。
その位なら、あの腕があればたいした災難にもならないはずだ。
牢に入れられていた事件にしても切るつもりはなかったらしいが、
妖怪の姿を真似していた山賊を見誤ってのことらしい。
桃源郷の妖怪たちは吠登城に集まっているし、襲うのはもっぱら自分一行たちなのだ。
あまり他に力をまわしている様には見えないし感じない。
と言うことは、あれが初めての本格的な戦闘と言うことになるのだろうか?
そう思って、バックミラーの中の彼女の顔をうかがい見る。
あまり顔色が良いとは言いがたい顔の彼女を見て、
「慣れてもらうしかないでしょうね。」と、誰にも聞こえない声で一人つぶやいた。
そう、この旅で妖怪に教われるなんて事は日常茶飯事なのだ。
むしろ、2〜3日戦闘に間が空くことの方がどうかしているくらいだし、
悟空や悟浄にいたってはその状態を『身体が鈍ってしまう。』とぼやく位の事でしかない。
食事中であろうと、就寝中であろうと、天気が良かろうと悪かろうと、
そんなことは関係ないのだ。
どちらかと言えば、人の営みに欠かせない隙を突いてくることの方が多い。
最初の頃に比べると、だんだんそれが酷くなっている。
こちらが西へ近づいているのだから、向こうだって手段を選んでいられない状態に
なって来ているという事なのだろう。
だから、が自分たちと一緒に来ることを選んでいる以上、
それは覚悟してもらわなければならない。
もう、吠登城には『三蔵一行』に5人目のメンバーが加わったことは
報告が行ってしまっている筈だ。
だとしたら、ここで降ろしても彼女が一人になった途端に狙われる事だってあり得る。
もう、危険だからとジープから降ろすことも叶わないということになる。
このまま 一緒に行くしかないのなら、彼女が早く慣れてくれるのを祈るばかりだ。
ぼんやりと見えていた街影が次第にはっきりと形をあらわにして、
その姿を眼前にする頃には太陽も沈みかける頃になっていた。
街に入ってとにかく宿を確保するために探した。
は自分たちの後ろを黙ってついて来る。
いつもなら食べ物のことでうるさいはずの悟空が、珍しく静かだ。
のことを考えると今夜は一人にしてやりたかったが、そんなうまく話は運ばない。
たどり着いた宿では、5人で1部屋に泊まることになった。
さっきのあのの様子だと、今夜は一荒れするかもしれない。
転園してきた園児がなじむためには、喧嘩して仲直りするのが一番の早道だ。
そこを治めるのが保父の腕の見せ所なのだが・・・・。
が旅に加わったところではまともに買い物が出来なかったし、
ここから暫くは野宿になりそうなので、この街に2泊し旅の物資を整えることになった。
夕飯後にそれだけを決めると、三蔵はいつものように新聞を広げた。
明日の朝一番にしなければならないのは、洗濯だからとその準備をしていると、
遊びにも出ないで部屋に居る悟浄がそばに寄って来た。
「なあ、悟空の様子変だよな。
ありゃなんかあるぜ。2人から目ぇはなさねぇ方がいいよな。」
灰皿に煙草を押し付けながら耳打ちするように低い声で話す。
「えぇ、そうですね。
昼間、剣を向けられた辺りから様子は変でしたから気にはしているんですが・・・。
人懐っこい性格ですが、あれで悟空もなかなかに曲者ですからね。」
そう言っている矢先に、が部屋から出て行こうとドアへ向かった。
「、宿からは出ないで下さい。
昼間のように何時襲われるか分かりませんから。」
その背にそう言葉をかけると、振り向かずに「分かりました。」と返事が返った。
すぐに悟空がその後を追うように部屋を出て行く。
悟浄が『どうする?』とでも言いたげにこちらを見た。
宿の敷地内なら何かあればすぐに分かる。
何しろ悟空の声と暴れ方では、音がしないほうがどうかしているのだから。
それでも後を追ったほうがいいだろうか?
どうしようかと逡巡していると、開けた窓から宿の庭を歩く足音が聞こえてきた。
池に小石でも投げ入れたような『ポチャン』という水音がすると、
すぐに「。」と彼女に呼びかける悟空の声が聞こえた。
別に覗き見しようと思ったわけではないが、
彼らの死角になる2階のこの部屋の窓は都合がいい。
悟浄と顔を見合わせて窓の近くに寄ると、下から見えない位置に立った。
「何ですか、悟空さん?
申し訳ないのですが、少し一人にしておいて下さい。」
呼びかけに対して抑揚の無い声で答える。
「昼間、俺と悟浄に剣を向けたよな、あれって本気だったんか?」
の答えを無視するように、悟空は問いかけた。
「さあ、どうだったでしょうか?
けん制しただけで、殺気はこめてなかったと思います。
確かに今まで剣の修行をして強くなって来ましたが、人の命を奪ったのは
先日の山賊が初めてでした。
相手が妖怪で、こちらがやらなければ自分が殺されると分かっていても、
こんなに沢山の命を奪うのに急には慣れません。
少し気持ちをクールダウンしたいだけです。
お気に障ったのなら謝ります。」
「そっか、それならいいんだ。
避けきれないほど早かったから、びっくりしただけでなんともないからさ。
ん、の気持ち分かったからもういいんだ。
俺たちもなんとも思わねぇわけじゃないけど、やっぱには厳しぃよな。
だけど、三蔵がさ言うんだ。
『西へ向かうのを邪魔する奴は、全部敵だ。』って。
『どんな姿で、何をして来ても、邪魔する奴は排除する。』って・・・・。
だから俺、それを信じて敵を倒してるんだ。
もさ、どうしたら良いの分からねぇんだったら、三蔵の言葉を信じろよ・・・な。
三蔵はすぐに怒るし、いっつも不機嫌そうだけど、本当の事しか言わねぇから。」
そう語った悟空の声は、自分の大切なものを教えているようなくすぐったさを含んでいた。
「そうですか、悟空さんには信じられる言葉をくれる人が傍に居てくれるんですね。
そして、それを信じて進んでいる・・・・・うらやましいです。」
八戒と悟浄からも背を向けているの様子は良く分からなかったが、
最初に比べたらずっと柔らかい声になっているように感じた。
こういう風に相手を和ませてしまう力が悟空にはある。
無意識だからこそ効力絶大なそれはにも効いたようだ。
「うん、だから、もそれを信じて進んだらいいと思うんだ。
だって一緒に西へ行くんだろ?」
「はい、そのつもりです。」
「じゃ、もう部屋に戻ろうぜ。
いつまでも此処にいると三蔵にも怒られるし、一人は危ねぇし・・・・」
「悟空さん。」
は悟空の名を呼んで、言葉をさえぎった。
「あの・・・・さっきのこと、ごめんなさい。
今度喧嘩を止めるときには素手でやります。」
「ん?そんなこと気にしてねぇって。
って言うかさぁ、その『悟空さん』って言うのやめて、『悟空』って呼んでくれよな。
もうは仲間なんだからさ・・・・な?」
「はい、そうします。」
悟空の明るい声に促されては池のほとりの石から腰を上げた。
そのまま上の窓を見上げて頭を下げてから、悟空と一緒に建物の出入り口に向かった。
「どうやら悟浄にも謝っているつもりらしいですね。
まあ、気配も殺してませんでしたから気づかれて当然ですが、
素手にしてくれるとはいえ、喧嘩はほどほどにして下さいよ、悟浄。」
窓枠の反対側に陣取っている悟浄へと視線を向けると、
面倒だとでも言うように頭をかいて視線をそらせた。

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