ベビーリップ 2




玄関を入ると廊下の向こうから何かが飛んできてにくっついた。
漫画では見たことあるが、本当にそんな光景を目にすることなどないと思っていたから、笑うことも出来なかった。
「お姉ちゃん、会いたかったよぅ。もう、戻って来ないかと思ったんだ。寂しくて、泣いちゃったんだからっ。」と、まるで生き別れになっていた姉弟の再会のような台詞を言っている。
もちろん他の誰でもない。
の弟の橘だ。
絶対に離れないぞ・・・というのを、言葉ではなく身体で表現すると、きっとこういう風になるのだろう。
そんな感じだ。
の腰にがっちりとしがみついている。
が橘の頭を撫でながら「ごめんね、橘。」と、謝っている。
「いいの、お姉ちゃんが悪いんじゃないって、パパやママが言ってたから。ただ、とっても寂しかっただけ。僕ねぇ、お姉ちゃんからのお手紙、何度も読んだよ。」
「ほんとう?嬉しいな。」
その言葉に橘の手がゆるんで、膝をついた
2人してしっかりと抱き合っている。
まるで、恋人同士のようだ。



こういう光景を見ると、大人気ないと思いつつもしっかりと嫉妬してしまう。
大人の面目にかけてそれを表には出さないだけだ。
それでも、2人越しに立っている兄貴が俺と視線が合うと、にやっと笑った。
子供の橘には、悟られていなくても大人にはバレバレなのだろうか?
それとも、兄弟だから分かってしまうのだろうか?
ともかく、兄貴は俺の心中を推し量って、笑っているらしい。
「さあ、お姉ちゃんはパパと大事なお話があるから、橘はリビングに行ってなさい。お姉ちゃんとは、後からお話できるから。」
兄貴が橘にそう諭すと、橘は渋々ながら「はい。」と返事をしてから離れた。
短い距離を何度も振り返って手を振る。
それにが答えると笑顔を向けてくるところは、最大のライバルながら可愛い甥っ子だ。
思わず口角が上がってしまう。
「じゃ、私の書斎に。」
兄貴にうながされて移動する。
出来るだけ橘と親子の時間を持つ為に、兄貴の帰宅は意外と早い。
無論、最初の頃はとの時間を持つ為だったが・・・。
そして、子供の就寝後に自宅の書斎で仕事をする。
だから、兄貴の書斎は本当に仕事用に作られている。
その部屋に入ると、申し訳程度に置かれているソファセットに案内された。
置いてあるのは申し訳程度だが、そこは主の書斎だから立派なものだ。
モダンで無駄の無いデザインのソファに身体を預ける。
ここに案内されたと言うことは、リビングでは出来ない話。
と、内容を予想する。



俺との顔を見て、兄貴が口を開いた。
「不自由をかけたが、もう戻ってもよさそうだ。宮内庁はちゃんのことに関しては、殿下のお妃候補と言うようなことは無いと保障してくれたから。
まあ、何処かのパーティで会ったことはあるだろうから、そんなところから話が出たのかもしれないな。出版社へも根も葉もない話を追うような真似は、止めてくれる様に頼んでおいたから。
これ以上、ちゃんへの取材が無断であった場合には、告訴すると脅しておいたし。まあ、大丈夫だろう。」
兄貴の言葉に、俺の隣に座っていたは、大きく頷いて「ありがとう。」と礼を言葉にした。
ほっとしたのか、肩から力が抜けたような感じがする。
「よかったな。」
の頭を撫でてそう言ってやると、嬉しそうに頷いていい笑顔を見せてくれた。



「でも、話はそれだけじゃないだろ?それだけならリビングでもよかっただろうし・・・。」
俺が兄貴の真意を問う様に話しかけると、「さすがだな。もちろん本題はこれからだ。」と、兄貴がにやりと笑った。
「早く言えよ。」
俺は我慢をさせられて痺れを切らした子供のように、噛み付いた。
「まあまあ、大人の短気は損気だよ、左近ちゃん。黙って私の話を聞きなさい。
で、今回のことで、思ったんだよ。どんなにけん制していても、またこういう話は出てくるだろうって。
ちゃんだけでなく、左近にだってありえる話だ。女性は事実無根だと声高に言えるし、恥にもならないところがある。
むしろ、年頃のお嬢さんだから・・・と、噂の一つや二つは褒め言葉の一つになるくらいだ。でも、左近だとちょっと違う。男だと仕事の信用が絡んでくるし、女性関係の多さは不誠実に見られたりする。
そこで、予定よりは少し早いけれど、2人の婚約を正式に発表しようと思うんだよ。」
兄貴が俺との顔を交互に見比べた。
「もちろん、洋子も同意しているからね。安心していい。
むしろ、この話を進めたがったのは、彼女の方だから。『にもっと確かな場所を与えてやりたい。』からって。」
その言葉に、隣に座っているが反応する。



「ママが?」
「そう、左近と婚約しなくてもちゃんは私の娘だから、家族として当然守るべき存在だと思っているよ。ある意味、橘よりも大切な存在だと思ってる。
ちゃんが許してくれたから、洋子は私と結婚する気になったと言っているし、私や左近を受け入れてくれたからこそ、橘という子供を授かろうと考えたんだって、洋子さんは事あるごとに口にするからね。
ちゃんが私の幸せを運んでくれた。
だから、ちゃんが幸せになるために私たちが出来ることがあるのなら、何でもしようと思ってるんだ。
で、もう少し先のつもりだった左近とちゃんの婚約を、正式に発表することで2人が売約済みになるだろ。
そうすれば、今回みたいな事には、巻き込まれないんじゃないかと思うんだよ。
ちゃんを僕の籍から抜かなくちゃならないからとても寂しいけれど、でも今度は妹としての絆が出来るからね。
そう考えれば早くなってもいいかなと思うんだ。2人の気持ちしだいだから、正直なところを言って欲しい。」
すぐに俺の気持ちを口にしようとして、兄貴に視線で止められた。
先ずはに話させようと言うことらしい。
だから了解したと、黙って頷いた。



「お義父さんとママが許してくれるなら、今すぐにでも左近ちゃんに私がプロポーズしたい。って、思ってるの。それが正直な気持ち。」
力が入ったその言葉に、兄貴がククッと笑った。
「嬉しいけど、やっぱり俺にさせてくれよ。」
ため息混じりにそうつぶやいてみる。
小さく頷いて兄貴が笑う。
「ん、じゃ早速弁護士に言って手配させるよ。戸籍を動かす必要があるからね。2人してパーティに出かけて少しでも話をすれば、すぐに広まるだろう。ちゃん、左近の為にもプロポーズはさせてやって。」
兄貴は俺にそうウィンクを飛ばすと、1人書斎を出て行った。
つまり、俺に時間をやるからプロポーズするようにということらしい。
あのお節介め。
俺だって、これでも色々と考えてたのに・・・。
こんなところで花束もシャンパンも音楽も無しで、一生に1回となる大事なプロポーズをしろというのか?
手ぶらなのに、何か記念になるようなプロポーズになるだろうか。
自分の書斎じゃないから、何処になるがあるのかも知らない。
机の上に視線を走らせて見る。
使えそうなものは何も無い。
仕方ない、指輪の他は言葉だけで行くか・・・。
俺は、の肩に手をかけて、こちらに向かせた。



だって、これから俺が何を言おうとしているのか位は察している。
だから、静かだけれど期待と不安に潤んだ瞳で見上げて来た。
いつもだったら、すぐにその柔らかな唇にキスをするところだけれど、今日はもう少し我慢しよう。
俺はの肩から手を離すと、そのまま彼女の前にひざまずいた。
右手での左手をそっと手に取ると、薬指の付け根に軽いキスを贈った。
「結婚して欲しい。」
ゴチャゴチャ言葉を飾るのはこういう場合好きじゃない。
決める時は、簡潔でストレートな言葉に限ると思っている。
の手を額に付けて返事を待った。
「喜んでお受けします。」
俺の教育の賜物か、彼女の答えは俺が望む全ての要素を持っていた。
その嬉しさに、俺は立ち上がるとを抱きしめた。
彼女の手も俺の背中に回る。
「ありがとな。愛している。」
安堵の息と共に礼を口にする。
「私も・・・。」
腕の中から少し震えているの声が聞こえた。
キスを堪能してから、可愛い手のひらにベルベットの箱を乗せてやる。
開いた彼女の表情を、俺は一生忘れないだろう。
差し出した左手の薬指にそっと誓いのリングを、はめてやった。





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2006.09.20up