ベビーリップ 1




朝、目が覚めて一番に隣に眠っているを見る。
彼女は昨夜の余韻を残したまま、素肌に何もつけないでこの腕の中で小さくなっている。
この状況を幸せだと言わずして、何が幸せだ、と思う。
会社では自分の地位からして、人を指図して仕事をしている。
自分よりも年上の社員を怒鳴ることもある。
兄の社長よりも恐れられている自覚があるし、わざとそうすることで盾になりたいと思っている。
そう、日常に会うほとんど全ての人間を、こちらの意図するところで動かす。
それはある種の快感であり、喜びだ。
けれども、ただ一人、真逆のことが喜びにかわる人間がいる。
それが今腕の中で眠っているだ。
自分の意のままにならないからこそ、愛おしい。
俺の言葉に反抗し、少しも思ったとおりに動いてくれない。
欲しい言葉を聞く為に、この俺がが小さい頃は腰を折って、恋人になってからは膝をついて耳を寄せる。
それでも、欲しい言葉が必ず聞けるとは限らない。
そこが、俺に人として忘れてはならない何かを思い出させる。
はそういう大事な存在だ。



枕許で目覚ましが鳴って、がゴソゴソと動き出した。
目を閉じたまま眼球が忙しそうに動くとすぐに、ゆっくりとまぶたが上がる。
唇に赤ちゃんにするようなキスを贈る。
まだ焦点の合わない瞳は、子供の頃に見た彼女そのままだ。
むき出しの素肌を少し覗かせて腕を出すと、目覚ましのボタンに手をかけた。
「おはよう。」
眠そうな声で挨拶をすると、もぞもぞと俺に背を向けてベッドの下のガウンに手を伸ばす。
「あっち向いてて。」
いつものことだが、はできるだけ俺の視線を避ける。
恥ずかしがることはないと思う。
けれど、本当に恥ずかしがることなく着替えたり、素っ裸で部屋を歩かれたりしたら、100年の恋も一瞬で冷めてしまうだろう。
気持ちなんてそんな物だ。
がちゃんとそういう恥しいという気持ちを捨てないからこそ、彼女をからかうのが楽しい。
「どうしても?」
「いつもお願いしてるでしょ。どうしても、です。さあ、早くあっち向いて。今日はお義父さんに呼ばれているから、どうしても家に帰らなくちゃ、支度しないと。」
「あぁ、そうだったな。」
寝返りを打って、が背中越しにゴソゴソしているのを聞きながら、そう返事をして兄貴に呼ばれているのを、思い出した。



実は兄貴が内々に宮内庁に打診していたお妃問題やに付きまとっている女性週刊誌の出版社から、回答が来たらしいのだ。
本人が全然あずかり知らぬところで、話が出るのはおかしいから、その情報源も一緒に尋ねていたらしい。
2人して簡単な朝食をとり、車に乗り込んだ。
今日は休日ということもあり、運転は自分用の車を自分でする。
ナビシートに座ったとは、車窓から見える景色や大学での生活を話題にした。
2人だけになっても全然話題に困らない。
もし、何も話さなくても緊張などしない。
まあ、ケンカでもしていれば違うだろうが、そういうところはお互いがとても自然だ。
そんな家族的な関係にあっても恋することは出来るし、別問題だと思っている。
信号で止まって、ふと横に居るの顔を見た。
幼い頃から見ているのだから、見慣れているし良く知っている。
それでも、俺の視線に気がついてこちらを見て微笑んでくれると、その彩られた唇に思わず心が鈍痛を覚える。
それは何度味わっても、説明が出来ない感覚だ。
何度も味わっているのだから慣れてもいいはずなのに、そうならないから不思議だ。
昨夜だってその鈍痛が与える疼きに身を任せて、に無茶をさせてしまったというのに・・・。
男とは本当に思考と身体の反応が単純だと思う。



兄貴の話いかんによっては、おままごとのように楽しかった同棲生活も終わるかもしれない。
それはそれで喜ばしいことなのだけれど、短い間に慣れてしまった。
いつでも恋人でいられる生活が、以前のように時間限定の物に戻るかと思うと、少々どころかかなり寂しく思った。
俺が話して頼めば、兄貴とお姉さんはきっと許してくれるだろう。
けれど、問題は橘だ。
俺の事をがどんなに愛していても、今のところ橘に泣かれてしまうと、あっちを優先にしようとする。
年の離れた弟をとても可愛がっているの気持ちが分かるから、強く駄目だとは言えないしな。
そう、俺がと暮らし始めた頃、彼女を妹のように可愛がっていた、まさにあの頃の気持ちと同じだと思うからだ。
が一人でいると思うと、実際には一人ではなくて使用人も何人かはいたけれど、それでも兄貴か姉さんか俺が帰るまで誰もいないのと同じだ。
夕食だって一人で食べなくちゃならないと思って、友達の誘いを断ったりして、家に帰ったものだ。



家に帰ってみると、門前で家の様子を伺っていた雑誌記者が見えなかった。
たまにいたテレビのカメラも見当たらない。
家の前が静かだなんて、騒ぎが起こる前に戻ったようだ。
が見つからないようにと、家に着く少し前から車の窓から見えないように身体を伏せていたのだが、そんな心配は要らなかったらしい。
、誰もいないから起きていいよ。」
「ホント?」
「あぁ、大丈夫そうだ。」
が身体を起こして窓の外を見ている。
「本当ね。」
安全を確認すると、シートに座りなおして大きく息を吐き出した。
「このまま、静かになればいいな。誰かに見張られていたり、遠くからカメラなんかに狙われているかと思うと、何処にいても落ち着かないから。
知られていないって分かっていても、あの隠れ家にいるときも気を使っていたから・・・。」
の沈んだ表情を見て、2人きりになれる時間が少なくなることなど、どうでもいいから・・・と、さっきの逆の事を思った。



俺が考えているよりも、今度のことはに精神的なダメージを与えているらしい。
俺なりに出来るだけの事をして守ったと思うが、それでもの保護権は兄貴や姉さんが持っている。
俺が出来ることは、そう多くない。
特に、対社会的なことになると、俺の発言権はさっぱりだ。
それがとても寂しいと思った。
これが、夫なら絶対的な発言力があるし、保護も堂々と出来る。
守ってやるにしても、矢面に立てる。
せめて婚約者なら・・・・。
そう思って、何度も悔しい思いをした。
だから、今日、兄貴が何を話すつもりかは知らないが、俺はと婚約したいと申し込もうと考えている。
身内的には既にそういう状態だと思うが、隠している以上は家族以外の何者でもない。
そう、正式な婚約者として許してもらいたいと思っているのだ。



実は、今回の騒動が持ち上がってすぐに、我が家が御用達にしている有名宝飾店に行って、エンゲージリングに適した大粒のダイヤの乗っかっているリングを注文した。
真珠を扱わせたら世界でも指折りのその店とは、その店の創業者時代からの付き合いだ。
が普段パーティなどに使うアクセサリーもここで買うことが多い。
だから、のリングサイズは彼女に尋ねなくても、店にオーダー記録として保管されている。
そのリングが俺の上着のポケットに入っている。
兄貴のOKさえもらえたら、これをすぐにでもにはめるつもりだ。
ひょっとしたら、俺の動きは兄貴に伝わっているかもしれない。
海外からの賓客を案内する折に、あの店の和モダンなデザインは喜ばれるからと、店には良く行くからだ。
それならそれで都合がいいと考えた。
どちらにしても、今日は勝負の日になる。
車を降りながら、ぐっと気合を入れた。





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2006.09.10up