ベビーシッター 3



エントランスを抜けて、常駐の警備員がいる警備室の前を通ってエレベーターに乗った。
左近ちゃんが押したボタンは最上階。
静かに上がっていく箱には、モーター音だけが響く。
可愛いチャイム音が鳴って、目的の階に着いた。
「さあ、どうぞ。」
そう促されて箱を降りる。
ドアは2つしかない。
贅沢な間取りのマンションだって事は分かる。
エレベーターから数歩のところにあるドアのひとつに、左近ちゃんがカードキーを差し入れて暗証番号を押した。
ドアを開けて左近ちゃんが私に入るように背中を押した。
玄関を入ると右へと廊下が続いていた。
玄関とホールで一部屋あるくらいに広い。
白っぽいから分かりにくいけれど、壁は収納などに使われている。
廊下の突き当たりのドアを開けて入ると、広いリビングダイニングが広がっていた。
左近ちゃんは、ダイニングからつながっているオープンキッチンへと入ると、コーヒーの準備をしている。
「探検してきていいぞ。」
うずうずしている様な私の様子に、笑って言ってくれた。
「そう?じゃ遠慮なく。」
ソファから立ち上がって、再び廊下へと出た。



いくつかある扉を、一つ一つ開けて中を見る。
ユーティリティルームには必要最低限のものしかない。
寝室にはキングサイズのベッドだけだ。
他の部屋は何も置いてなくて、がらんとしている。
家具やカーペットさえも入れてない。
探検したって見るところがないといった感じ。
すぐに見終わってしまい、リビングに戻った。
「ねぇ左近ちゃん、ここどういうところ?誰も住んでいないみたいだよ。左近ちゃんの知り合いの家?」
私の質問にクスッと笑って、淹れたてで湯気の昇るコーヒーをマグカップに注ぐと、片手に1つずつ持ってキッチンから出てきた。
目の前のテーブルに片方を置いてくれた。
飲めと目で促されて、マグに手を伸ばし口をつけた。
「ここはさ、別荘にしようかと思って。」
「別荘?」
「ん、いるだろ。毎回、ホテルというのも味気ないしさ。時間や人目を気にする必要もある。第一、家じゃなかなか2人になれないしな・・・・。だからと言って遠出も面倒だからな。家からこのくらいの距離ならちょうどいいだろ。」
左近ちゃんの言っている意味がよく分からなくて、首を傾げた。



「だから、平日は家のほうが安全だろ?誰かがいるし、セキュリティだって半端じゃないし。俺もほとんど仕事で空けてるし、出張だってあるからな。けどさ、休みの日くらいは2人でいたいじゃん。映画やショッピング、コンサートや外食っていうのもあるし。家にいると2人きりにはなれないよな。橘がから離れないし。それに、やっぱり家の中じゃ手が出せないんだよ。」
左近ちゃんがこれでも分からないのかって顔をして私を見た。
恥ずかしくなってうつむいて、マグの中の琥珀色の液体を見つめた。
「でもここ、何にも無いよ。」
「そう、それだよ。が好きなインテリアが分からなかったから、ベッドしか入れられなかったんだ。それも土台とマットだけ。
の好きなインテリアってどんなの?隠れ家っぽく飾っていいぞ。金は俺が出すからな。」
「じゃあ、シノワズリーな感じにしたい。」
思わずそう答えた。



「シノワズリー?」
「うん、駄目?」
「いや、よく分かんないけれど、いいよ。任せる。ここに電話して相談するといいよ。」
左近ちゃんがシステム手帳のポケットから1枚の名刺を出してくれた。
手元に引き寄せてみると、インテリアデザイナーの名刺だった。
「俺にはわからないから、そいつと相談して。俺の大学時代のダチだから。」
「うん、分かった。」
「悪いな、部屋のインテリアなんて俺にはさっぱりわからねぇし。相談相手にもなってやれないしな。の趣味は信用してるから。こだわりは部屋の一件で知ってるからな。」
左近ちゃんがそう言って、にやりと笑った。
自宅の私の部屋を改装したときのことを言っているんだ。
女の子らしいピンクとフリルで飾ろうとしたお母さんに、もう高校生になっていた私はすごく抵抗して、
何とかブリティッシュ・カントリーで落ち着いたという経緯がある。



「とにかく今夜からしばらくはここに居ろって兄貴が言ってたからね。食料品を買いに行こうか。暇な分は、色々そろえることで紛らわせ・・・な。」
空になったマグカップをシンクに入れて、私たちは買い物に出かけた。
近所のスーパーで今夜と明日の朝の食材や飲み物、歯ブラシなどの日用品を買って帰った。
その夜は簡単にパスタの夕飯を作り食べた。
普段はやらせてもらえないけれど、土曜日や日曜日にはシェフに頼んで料理を教えてもらうことにしている。
元々、義父さんとお母さんが結婚するまでは、母子家庭だったから
私もキッチンに立つこともあった。
今は何もしなくてもいい生活だけれど、どんな人と結婚するか分からない以上、人並みのことは出来たほうがいいと思っているから。
出来れば、ずっと左近ちゃんのそばにいたい。
義父さんとお母さんも賛成して許してくれているし、婚約も口約束だけどしてくれている。
けれど、私よりも素敵な人が左近ちゃんの前に現れるかもしれない。
そう考えると怖かった。



左近ちゃんが持ってきてくれたカバンには、当座の着替えや必要そうな小物や化粧品なども入っていた。
きっと、お手伝いの女の人にやってもらったんだろう。
左近ちゃんがここまで気付くはずがない。
お風呂を使って、休むことにした。
キングサイズのベッドは、左近ちゃんと私の2人では勿体無いくらい広い。
シーツと上掛けの間に身体を滑り込ませる。
反対側からベッドに入った左近ちゃんが、とても遠くに感じた。
、こっちおいで。」
片肘をついて私の方を見ながら、左近ちゃんが呼んでくれた。
シーツの海をかき分けて左近ちゃんへと進んだ。
身体をぴったりとくっつけると、腕を回して抱きしめてくれた。
その温もりと安堵感で、初めての部屋で初めてのベッドでもゆっくりと眠れそうな気がする。



左近ちゃんが、鎖骨の辺りに唇を寄せてきた。
背中に回されていた手が、パジャマのすそから中に入ってくる。
「左近ちゃん、いや。」
「どうして?」
「だって・・・・。」
「なに?はこんな絶好のチャンスを、俺が逃すとでも思っているの?それはないと思うよ。いくら認められているからといって、そうそう外泊なんて出来ないしな。家族旅行の時だって、子守とばかりに橘がいつも一緒だし。それに、状況しだいでは明日にも帰宅かもしれないだろ?」
「あっ。」
「そういうことだから、素直になって。」
「うん。」
左近ちゃんの胸元辺りに置いていた手を動かして、抱えきれない広くて大きな身体に回す。
抱きつくと言うよりもしがみつくと言った方が正しい。
けれど、小さい頃から左近ちゃんはそうしろとうるさかった。
抱きしめられて嬉しければ、抱きしめ返さなきゃ駄目だからと。
例え、小さくても女の子でも受身でばかりいては気持ちは伝わらないからと。



だから、いつもこうして私の気持ちを伝えるようにしている。
私が抱きついたことで、左近ちゃんの腕に力が加わった。
すっぽりと包まれる安心感。
ここにいれば何も怖くない。
そんな気持ちにさせられる。
お互いの相手を欲しいという気持ちが同じなら、こうして身体を重ねることは大事だと思う。
好きな人に欲しいと言われるほど嬉しいことはないと思うし。
抱擁を少しゆるめてお互いを見つめる。
近づいてくる左近ちゃんにもう焦点が合わない。
視覚に頼ることをあきらめて、私は瞳を閉じた。





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2006.01.25up