ベビーシッター 2




義父さんに電話で今朝のことをかいつまんで話した。
『そんな話ははじめて聞いた。
こちらでも調べてみるよ。
気をつけて帰りなさい。』と言ってくれた。
何かの間違いだとは思うけれど、このまま放っておくわけには行かない。
今朝のように、記者がうろうろするのは嫌だった。
もし、今朝の記者が何か書いて紙面に載せようとしても、義父さんがそれを阻止してくれることは分かっている。
そうでなくても左近ちゃんがそれを許さないだろう。
私がお母さんの再婚で春野の家に入った時は、子供だったけれどちゃんと記憶がある。
だから、義父さんや左近ちゃんとの関係もきちんと理解できているし、その上で私たちは家族として、仲良く暮らしている。
まだ小さいけれど、橘にだってきちんと話はしてある。
もし、家族以外の誰かにその話を聞かされたとしても、家族の絆や関係が崩れることは無い。
けれども、世の中の人の中には、良い見方をしてくれる人ばかりじゃない。
粗探しをしてお金にしようとする人もいる。



別に隠しているわけじゃないけれど、左近ちゃんと私のことはまだ公表はしていない。
成人はしているけれど、まだ私が大学生だからだ。
卒業と同時に正式に婚約することになっている。
名門の私立大学に通っているから、当然周りにはお嬢様も多い。
だから、在学中から婚約している人だっているし、中には生まれた時から許婚がいたなんて話もあるくらいだ。
だけど、義父さんとお母さんはけじめとして、学生の内は義父さんの籍から抜くつもりは無いという。
だから、卒業まで左近ちゃんとの婚約はありえない。
認めてくれているだけでも、嬉しいことだと思う。
左近ちゃんもそう言っていた。



講義が終わって大学を後にしようと門を出た。
いつものように駅に向かおうとすると、街路樹の並ぶいかにもキャンパス前という道路に見慣れた
左近ちゃんのシトロエンC5 ブレーク V6 エクスクルーシブ が停まっていた。
車にもたれて腕を組んでいる左近ちゃんが見える。
お金持ちのお坊ちゃまが乗る定番ともいえる、BMWやベンツじゃなくてシトロエンを選んでいるあたりが、彼らしいといつも思う。
私の視線に気が付いたのか、こっちを見た。
ゆっくりともたれていた車から離れて、助手席のドアを開ける。
手招きもしないで、目でだけ語るの。
『これに乗って。』って。
そんな左近ちゃんの瞳に私はうなずいてしまう。
ほっとしたように、嬉しそうに笑ってくれる左近ちゃん。
年上なのにそんな感じがしない笑顔に、私はとっても弱い。



レザーシートに身体を預けると、左近ちゃんがドアを閉めてくれた。
彼が運転席に滑り込む間に、シートベルトをつける。
それを横目で確認して、左近ちゃんはセルを回してエンジンをかけると、ギアをドライブに入れてアクセルを踏んだ。
「兄貴から聞いたよ。俺も初耳だったけど、あれだな。」
「あれ?」
「ん、2週間ほど前のドイツ大使の奥さんのバースディパーティで、と親しくしてた男だと思う。確か、イギリスかどこかに留学しているって言ってただろ?」
左近ちゃんの言葉に、記憶の糸を手繰り寄せる。
そういえば、そんな人がいた。
「うん、思い出した。」
「そいつが殿下だってさ。」
「ふーん。でも、その場限りで親しく話はしても、あの人からそんな感じ受けなかったよ。」
下心みえみえでそばに来る人や、そうでなくても好意を持ってくれている人には、敏感な性質だと思う。
けれど、記憶にある人からは、そんな感じは受けなかった。
「何か誤解があったんじゃないかな。だいたい私が『妃殿下』ってタイプでもないでしょ。」
ここは軽く流しておこうと笑ってみた。
だって本当に自分じゃそう思っているし。



「ん、妃殿下になんかさせるかって言うんだ。俺にとったらは大事な大事なお姫様か女神って所だからな。しかも、もう、俺専属ってことにしたんだから。他の奴なんかに渡さない。」
ハンドルにかかっていた左手が、ひざに乗せていた私の右手に重なる。
それに応えたくて、私は伏せていた手の平を上に向けた。
私のひざの上で左近ちゃんと手をつなぐ。
「大丈夫だよ左近ちゃん。何処にも行かないから。」
運転の為に前を見ている左近ちゃんの横顔を見ながら、私は力を入れてはっきりと言った。
「ん、分かってるって。俺だってを何処にも行かせねぇもん。こうして手をつないで放さないし。」
そう言った左近ちゃん。
重ねられていた手にぎゅっと力が入る。
気持ちまでつかまれたみたいで、心臓の辺りがキュッとした気がする。
素でこんなことをさらりと言われると、本当に身が持たない。



「今朝のことは兄貴が調べているし、きっちりと抑えるだろうからな。『記事にもならないだろうから安心していいぞ。』って言ってた。」
面白くなさそうに義父さんの伝言を伝えてくれる。
「ん、ありがと。もし、そういう話があったのなら義父さんの事だもの、ちゃんとお断りしてくれていると思うの。それに私にも話は聞かせてくれると思う。だからすぐに電話したの。」
「ん、分かってる。」でも、そう言っている左近ちゃんは、なんだか怒ってるように見えた。
ううん、怒っていると言うよりも拗ねているみたい。
なにに?
私に?
ひょっとしたら・・・浮かんだ考えに、思わず嬉しくなって笑ってしまう。
「何がおかしいんだ?」
一人で笑っていることを見咎めて、問いただしてくる。
「別に何でもないよ。だけど、さっきから左近ちゃんってば、機嫌悪いよね。私が義父さんに電話したのが気に入らないの?」
ちょっと窯をかけてみた。
「ばっ、馬鹿。そんな事あるわけないだろ。が兄貴を頼るのは普通のことだし・・・な。なんたって父親なんだし・・・。それに、俺たちのことは、もう暫くは内緒だしな。そんな事言われなくても分かってるんだよ。」
ちょっと投げやりな感じで左近ちゃんは言い訳をした。



「そう?本当にそう思ってる?そっか、なぁんだ、私の思い違いなんだ。もしかしたら左近ちゃん、私が義父さんに電話したのを面白くないって思ってるんじゃないかと思ったんだけど。違ったんだね。私ね、記者のマイクから逃げた後、携帯を持ったときに一番に浮かんだのは、左近ちゃんのことだったよ。でも、この話は義父さんにしなきゃ駄目だよねって思ったから、電話は義父さんにしたの。きっと義父さんの事だもの、左近ちゃんにも話してくれるだろうと思ったし。左近ちゃんには、ゆっくりと話したかったんだ。」
身体を前のめりにして、左近ちゃんの顔をうかがった。
「本当にそう思ったのか?」
「もちろん。こんな嘘をついてもいいことないでしょ?助けを求めるのに、彼氏のことを考えないなんてことないよ。ただ今回は、義父さんを頼った方がいいからそうしたけれど・・・。早く誰にでも話せる恋人になりたいなぁって思ったの。」
つないでいた左近ちゃんの手に、左手を重ねた。



「参ったな。にそんなことを言われると、俺の方が子供じみてるみたいじゃないか。兄貴に嫉妬したりなんかしてさ。格好わりぃな。まあ、ここはひとつ名誉回復と行きますか。」
左近ちゃんはそう言って、ハンドルを切った。
車はそれに応えて、角を曲がる。
目の前に見えたその建物を見て、私は思わず左近ちゃんを見た。
そのまま車は地下の駐車場へと滑り込む。
「ここって・・・・」
「ん、俺の個人マンション。家の方には記者が張り付いているからさ。ほとぼりが冷めるまでは、こっちにということになった。もちろん、兄貴も義姉さんも知っているからな、大丈夫。着替えなんかは、ある程度は用意してきたから。」
車を降りながらそう左近ちゃんが説明をする。
左近ちゃんの個人のマンションということは、ここでたくさんの女の人と過ごしたって事じゃないのかな。
そう思ったら、すごく悲しくなった。





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2006.01.18up