ベビーシッター 1



母はこの家の女主人としても私や橘の母親としてもよくやっていると思う。
まして、義父さんの秘書や春野コンツェルンの総帥夫人としてもがんばって働いている。
私は既に20歳だからあまり母親の手を煩わせることは無いが、弟の橘はまだ10歳だから、まだまだ手がかかる。
橘だってとってもいい子で、義父さんが違う私を本当に慕ってくれる。
わがままだって言いたいだろうに、じっと我慢している。
やんちゃだけれど、優しい子だ。
橘が生まれてから、母は仕事をセーブしたりしているのは感じていた。
だけど、どうしても大人の付き合いになると、夜の外出が多くなる。
橘のことを思えば、母は夜はあまり出かけたくないだろうと思う。
だから、きっと義父さんだって気を使っているはずだ。
それでも、夜に出かけることは少なくない。
私が高校生になって公式の場に出られるようになってからは、時々代理でのパーティ出席も頼まれる。
もちろん、義父さんにだ。
そんな時は、義父さんか左近ちゃんが必ず一緒だ。
私一人ということは有り得ない。



離婚した母と2人だけの生活をしていた頃は、アパートで母が帰るまで私一人だった。
生活のために一生懸命働いてくれているんだと知っていても、寂しい気持ちが埋められるわけじゃない。
橘には出来るだけ一緒にいてやって欲しいと思っていた。
だから、頼まれれば左近ちゃんや義父さんと一緒にパーティに出向いた。
黙って横に立っていればいいだけだし、紹介されれば挨拶をして、話しかけられれば卒の無いように受け答えをする。
はじめは戸惑ったけれど、慣れてしまえばそうでもない。
だいたい、私に話しかけられる言葉は決まっている。
義父さんや左近ちゃんが一緒だと、そうそう言い寄られることも無い。
しっかりとガードしてくれる。
特に左近ちゃんのガードは嬉しかった。
やっぱり意中の人に守られると言うのは、女の子なら誰でも憧れる。



その日は、大学が2コマ目からの講義だったので、いつもよりもゆっくりとした朝ごはんを食べて用意した。
執事の八木さんの見送りを受けて玄関を出た。
ロータリーを突っ切って正面の門脇にある通用門へと向かう。
外から中は見えないようになっているから、当然中からも外は見えない。
警備上カメラはあるけれど、私はそんなものは確認していない。
通用門を出て道路へと向いたところで、カシャっという音と共に、閃光が私に浴びせられた。
驚いてそちらを見れば、再度シャッター音とフラッシュが焚かれた。
何だろうと思うまもなく私の目の前に一人の女性が姿を現した。
「あの失礼ですが、春野さんでいらっしゃいますか?」
「えぇ、そうですが。」
「突然ごめんなさい。私はこういうものです。」
その人が差し出した名刺を手に取り、名前と職業を確認する。
そこには、女性週刊誌の名前と記者の名前が記されてあった。
私にはどうして週刊誌が取材に来るのかが分からなかった。



もっともこうしたゲリラ的な取材の申し入れに来たと言うことは、義父さんの方には無許可か断られたからに違いない。
用心しなければと、気を引き締めた。
「何か御用ですか?」
答えはしないけれど、なにを聞きたいのかは知りたい。
そう思って話を向けた。
「はい、実はさんが高辻の宮家の実仁(さねひと)親王とご婚約されると言うお話を伺って、是非取材させていただきたいと存知まして。どうでしょう、うちの雑誌に独占インタビューをお願いできないでしょうか?」
その女性記者が口にした言葉は、私にとって寝耳に水だった。
思わず足が止まる。
「何かのお間違いじゃないですか?私はそんなお話初めて聞きました。」
首を数回横に振って、その女性記者の顔を見る。
「冗談でもそんなお話あるわけ無いじゃないですか。私は望まれるような生まれじゃありませんから。」
とりあえず名刺はポケットに突っ込んだ。
後で義父さんに話をしなければならない。
女性記者は私に完全否定されたにもかかわらず、まだ何かを聞きたそうだったけれど、軽く走って逃げておいた。
あんなミュールじゃ追い着けないだろうことは分かっていたので、角を曲がったところで走るのは止めたけれど。
今日はジーンズだったからローファーをはいていた。
助かった・・・と、幸運に感謝した。



大学の講義を聴きながら、私は今朝の記者との一件を思い出していた。
大使館のパーティか、どこかのデザイナーのパーティ、それとも誰かの叙勲のパーティだろうか?
どこかでその高辻の宮家の実仁親王に会ったかも知れない。
ひょっとしたら挨拶くらいはしたかもしれないし、会話したかもしれない。
けれど、現天皇の従兄弟の息子なんて顔も覚えてはいないし、縁のないものだと思う。
確かに春野家は財閥だし私にもガードが付いているのは知っている。
常に誘拐などの危険にさらされているから仕方が無いのだ。
でも、義父さんはそういうことは気にしないで、普通に過ごすように言ってくれているから、気にしないようにしている。
気にしていたら、生活できない。
私が本当に血のつながった娘だったら、お妃候補なんて話もありえるかもしれない。
現に今の天皇とその直系の妃は皆一般の出身だ。
私は母の連れ子だし、春野家とは血縁関係が無い。
どうしてこんな話が出てきたのかが、分からなかった。



そういえば、現皇太子妃の内定までには『お妃候補』と呼ばれる女性たちが、週刊誌の紙面をにぎわしていた時期があった。
それこそ、見当違いもいいところだと思うような普通の女性の写真が、さもこの人だと言わんばかりで掲載されていたのを見たような気がする。
TVも追いかけてたな。
迷惑そうに否定しながら走り去る女性を見て、お気の毒にと思ったものだ。
皇太子妃も確かその中の一人だった。
何かのインタビューに答えて、完全否定していたような記憶がある。
だとすれば、噂がなくなるまでは仕方が無いのだろうか。
嫌な事に巻き込まれたなぁ・・・・。
正直な感想は、そんなところでしかない。
それに、私には左近ちゃんがいる。
戸籍上はまだ叔父さんになるけれど、大学を卒業したら義父さんの籍から抜いてもらおうと考えている。
そうすれば、元々血縁関係に無い私たちは、赤の他人だ。
恋愛や結婚に何のさしさわりも無い。
今朝聞いたあの噂が何処まで本当かは知らないけれど、私には関係ないことだと思う。



あの話を聞いたら、左近ちゃんはどう思うだろう。
恋人になって初めて分かったことだけれど、左近ちゃんは独占欲が強い。
ちょっとびっくりだった。
橘にさえ妬いていたりする。
それはもう本気になってくれたりするから、後が大変だ。
橘はただ姉が取られるみたいで、面白くないだけだと思うのに。
左近ちゃんは独占欲とか執着心なんて言葉とは無縁だと思っていた。
だって、私の知っている限り左近ちゃんには、決まった人がいると言うことはなかったし。
いつもパーティに同伴する女性は違っていた。
外ではどうだったか知らないけれど、家の中には女性関係は持ち込まなかった。
今から考えると、私に気を使ってくれていたんだと分かる。
好きな人からの独占欲って嬉しいものだったりする。
それだけ求められているんだと思うし、誰にも渡せないほど好きだと言うことなのだから。
左近ちゃんはどう出るだろうか。
少し心配になる。
ここは義父さんにちゃんと話して抑えてもらった方がいいかもしれない。



講義が終わって教室を出て携帯電話のマナーモードを解除する。
短縮に入れた義父さんのナンバーを押して、コール音を聞きながらどう切り出そうか考えた。





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2006.01.11up