ベビーフード 1




目一杯の自制心をフル稼働させて、左近ちゃんの部屋から自室までを普段どおりに振り向かないように帰った。
閉めたドアにもたれて何度も深呼吸を繰り返す。
耳元で聞こえるほどの胸の鼓動が少しも静かにならない。
お母さんの再婚でこの家に来てからずっと、左近ちゃんと一緒に暮らしている。
多分、お義父さんよりも一緒にいる時間は多かっただろう。
本当のお兄さんでもこんなに面倒は見てくれないだろうと思うくらい、左近ちゃんは私を気にかけてくれている。
お母さんが再婚する事での寂しさも、お義父さんのぎこちなさも、橘が生まれた事での疎外感も、私一人だったら乗り越えられなかった。
いつも左近ちゃんがそばに居てくれたから、そして多分多かれ少なかれ左近ちゃんも
同じ思いを味わっていると言う仲間意識から、私はちゃんと全てと向き合えた。



私がそんな左近ちゃんに家族以上の気持ちを抱くようになったのは、もう何時だか分からない。
ひょっとしたら、最初に会った時からかもしれない。
あの時は、素敵なお兄ちゃんが出来たと喜んでいただけだったけど。
両親は本当に忙しかったから、左近ちゃんは何度も代わりに学校に来てくれた。
参観日も左近ちゃんが来てくれると思うから、お母さんじゃなくても寂しくなかったし、頑張れた。
あの頃、左近ちゃんは高校生だった。
もし、私が高校生の時に橘が望んだら、学校に行けただろうか?
問われたら、ちょっと難しいとか恥ずかしいと応えるかもしれない。
それなのに、左近ちゃんは来てくれた。それも嫌な顔一つせずに。



友達が格好良いと騒ぐクラスメイトの男の子よりも学校の先輩や後輩よりも、私には左近ちゃんが素敵に見えた。
そしてその気持ちは今でも変わらない。
共学に通っていながら彼氏を持とうとしない私。
皆には稀有な存在として映っていたらしい。
でも、義理でも叔父に当る左近ちゃんに恋心を抱いているなんて、迂闊には人に話せない。
女子高校生が恋の話をしないと、友達も作りにくい。
元々進学校で女生徒数が少ないのに、そんな状況なものだから、私には親友と言う友達が出来にくかった。
そんな私と同じようにクラスで浮いている女の子が1人。
彼女は私より背も高くて美人で頭も良い。
告白に列を作って並ぶ男子生徒を、片っ端から断っている事で有名だった。
私も告白はされるけれど、数が違う。
だからだろう、私たちはお互いに興味を持った。
どちらからともなく声をかけて行動を共にするようになり、仲良くなった。
そして、彼女を知って、親友と呼べるほどになったある日。
美波ちゃんは、彼女がしている恋を話してくれた。
確かに彼女の恋は特別だった。
私のといい勝負だと思う。
それで、私も誰にも話したことがなかった私の恋を彼女に話した。
自分の心だけにしまって置いた心のときめきやドキドキを、誰かに話せるってなんて幸せで甘く感じるんだろう。
他の誰かじゃ安心して話せない。
けれども、美波ちゃんなら苦しさも切なさも大丈夫だった。
高校を卒業する時には、私たちは無二の親友になっていた。



それぞれの希望する大学に入っても、それは変わることなく続いている。
私や美波ちゃんのような特殊な恋をしている女の子なんて、早々いない。
つまり、相変わらず他の人には恋の話は厳禁。
ただ、私も少しは成長して、他の話題でも十分に人間関係を築く事が出来るようになっている。
だから、大学生活もそれなりに楽しく送っている。
美波ちゃんは私より一足早く、人には言えない恋を成就させた。
『次はちゃんの番だからね。』と、彼女は励ましてくれるけれど、正直難しいと私は思う。
左近ちゃんは優しくて、格好良くて、大人で、お金持ちだ。
子供の頃は左近ちゃんの全てを独占しているつもりだったけれど、それは私の思い込みだというのは、左近ちゃんが大学生になった小学5年生の春に分かっている。
女の人が放っておくはずがないことも。
中学生時代も高校生時代も、私は一番身近に居ながら
女としては見てもらえない自分を、知っていた。



左近ちゃんの中では、いつも可愛い妹として存在している。
女の子としては扱ってくれるけれど、恋愛の対象にはならない存在。
それが左近ちゃんから見た私の位置。
左近ちゃんの愛情で言うなら、男としての愛情はもらえない。
家族としてのものだけ。
左近ちゃんが私を見る時の瞳は、まるでお父さんが娘を見る時のそれに近い。
絶対に安全で添加物も入っていないベビーフードのような、そんな愛情を私に注いでくれている。
それを知ってもあきらめられない。
駄目な私なのだ。



お義父さんからの突然の見合い話は、本当に驚いた。
けれど、いつかはやってくる話だと思っていたことも事実。
高校の時には制服だったからそんなことは感じなかったけれど、大学に入ったら自分はお嬢様なのだと周りの反応を見て思い知らされた。
お母さんと一緒に出かけて買っている洋服も、カバンも、靴も、あからさまではないけれどブランド品だし。
携帯にはGPSが内蔵されているもの、いつも着けているブレスレットのチャームには発信機が付いている。
自由に出歩く事は許されているけれど、誘拐などに備えて対策は取られている。
そんな感じだ。



結婚相手はあまり自由には選べないかもしれない事は、覚悟していた。
条件の許される中からの選択になるだろうと。
現社長であるお義父さんの子供は2人。
私と橘だ。
橘は跡継ぎとしてなくてはならない存在。
私は母の連れ子だから、どこかに嫁ぐことになる。
会社に有益な結婚をするのは、自然な流れだろうと思う。
私が連れ子だからではなく、そういうものだというのはこの歳になれば分かっていて当然だと思った。
人より良い暮らしの代償として。
本来、私はその恩恵に浴すべき人間じゃないのだから。



でも、そのためには先ずは左近ちゃんをあきらめなければ話にならない。
その結婚が政略的なものだとしても、出来れば相手を好きになりたい。
50年近くを共に過ごす相手になるのだから。
恋愛結婚とまでは行かなくても、それなりの愛情と尊敬を持って仲の良い夫婦でありたいと思う。
間に生まれる子供も、そういう両親なら少なくとも不幸ではないはず。
私が相手を好きになって結婚すれば、向こうだって悪い気はしないだろう。
愛人や浮気があっても、少なくとも離婚しようとは思わないはず。
そんな妻の実家の事なら、優遇してくれたり助けてくれるのではないだろうか。
お義父さんや左近ちゃんや橘の為に、少しは役立つ。
でも、私は左近ちゃんをまだあきらめていないから、もう少しだけ時間が欲しいと願った。
婚約と言う手もあるのだろうけれど、適齢期の幅が広くなっているのに、何も急ぐ事はないと思う。
今回は、お義父さんに言って流してもらったけれど、早く何とかしようと思う。



話の流れでついでのように、左近ちゃんからデートに誘われた。
何度も一緒に出かけたこともあるのに、今までとはどこか違う。
なんだか本当のデートみたい。
転機になるかもしれない。
期待80%でそんなことを思った。
左近ちゃんに私を妹や姪以外に見てもらえるチャンス。
見合いが来たことで、少なくとも大人の女性になったと認識してもらえたらしいし、その上でデートなんだから、期待するなって言う方が無理。
クローゼットの前まで歩いて、扉を開けた。
寂しい思いをさせていると思っているのか、再婚してからのお母さんはその前よりも私に甘い。
特に橘が生まれてからは、私との時間を持とうと意識しているらしい。
その時間はだいたい買い物をしている事が多い。
だからクローゼットの中は結構充実している。
彼氏もいなくて、友達関係もそこそこしか付き合いのない私には、不必要と思われるほどの衣類。



目に付いたものを何枚か取り出して、胸に当てて見る。
「自分じゃどうも選べないな。
やっぱり此処は・・・・」
部屋を出て、母親の所へ相談に行こうと思った。
左近ちゃんとのお出かけを反対するはずがないのは承知している。
それなら、大人の女性の先輩としてアドバイスをもらおう。
きっと喜んで相談に乗ってくれるに違いない。





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2005.08.17up