NO.92 マヨヒガ





いつものように 朝議の行われる外殿から内殿に帰る途中だったはずだ。

外殿から内殿に建物を渡って 廊屋の角を曲がっただけなのに、

自分の周りだけに 霧が掛かったように白くかすんだと思うと、

気がつけばどこだか知らない宮殿の廊屋に迷い込んでいた。

後に従っていたはずの悟空と三蔵の姿はそこにはなく、

傍で今の朝議に出た議題について話し合っていたはずの八戒の姿も見当たらない。

そこにはただ1人 だけだった。





長い廊屋には 人の気配はなく、だが 廃屋と言うわけでもない。

「迷子と言うわけでもなさそう・・・・」 ポツリと言葉が出た。

桃源宮には 離宮としていくつかの別荘のような建物も存在する。

後宮も東宮も使う必要がない 現在の主上の元、

確かに宮殿には人も少ないし 使っていない宮も多いが、

ここまで 人の気配がないということはない。

それに この状況に至るまでが 少し異常だと思う。 

とにかく少し歩こうと 廊屋をそのまま進んでいく。




造りから見て どこぞの宮殿には違いないが、少なくとも今まで行った事のある

慶東国 雁州国 戴極国の宮殿や 桃末国内の離宮というわけではなさそうだ。

なぜか 違和感を覚える。

常世の国のものではないような気がする。

では 蓬莱のものかと問われれば、それもまた違うような気がする。

どの宮も 扉は閉められている、つまり その中には誰もいないということだ。

しばらく廊屋を進んでいくと、廊屋の端に 扉が開いている房室を見つけた。

とりあえず そこを目指して入ってみる。




卓子には お茶と菓子が用意されて おいしそうな匂いと湯気が立っているが、

やはり人の気配は感じられない。

「どうしよう、これは本格的に困ったな。

王気を感じて三蔵が迎えに来てくれるだろうか・・・・」

独り言だが つい弱音が出た。

『どうぞ、お休み下さい。』と 声が聞こえた。

いや、正確に言うならば 耳に聞こえたのではなく。

脳に響くように の内側で声がしたというほうが正しい。

「私に話しかけているものは誰だ?」

は声にして 呼びかけた。

『朝議の後で のどが渇いておいででしょう?

そこのお茶と菓子をお召し上がり下さい。

貴女に危害を加えるような事は 誓ってございません。

毒など入っておりませんので、安心して お休み下さい。』と、もう一度声がした。




声の言うとおりに はのどが渇いていた。

内殿に帰って、八百鼡が用意しているだろうお茶を飲もうと思っていたことは確かだし、

八戒との話し合いで 空腹感も覚えていた。

大人しく椅子に座ると、卓子の上の湯飲みに手を伸ばした。

中のお茶の匂いを嗅ぎ、少しだけ口に入れて毒の刺激がないか用心した。

舌先に刺激は感じない。

まあ、大丈夫だろうと のどを潤すだけ口に入れる。

菓子はお茶よりも危険だと思い 手を出すのをやめておいた。




「で、私をここへ連れてきた 目的は何なのだ?」

は宙に向かって話しかけた。

「そなたも知っておろうが、私は桃末国の王なのだ。

居なくなれば みなが心配していると思う。」

の言葉に 姿なき声は、楽しそうにクスクスと笑った。

『えぇ、本当に 主上はずいぶん慕われておいでなのですね。

皆さんの慌てようと言ったら 並大抵ではありませんよ。

お帰りになりたいですか?』

その声に は眉間にしわを寄せると 椅子から立ち上がった。

「当たり前だろう、ここは私が居るべき場所ではない。

どうすれば帰れる?

何が目的で 私をここへ連れてきた?

桃末国は貧乏で お金とか財宝なんて望まれてもないぞ。

だけど・・・私で出来ることがあれば 出来る限りで答えるから、帰して欲しい。」

は姿なき相手に訴えた。




『桃末国が王に頼まれては お断りする訳にもいかないでしょう。

承知いたしました、ですが1つだけ 主上にはここでしていただきたい事がございます。』

帰してくれると聞いては安堵したが 今度は要求される内容について心配になった。

「私がやればいいこととは何?」

「はい、主上には ここで何かおひとつ望まれるものを願って頂きたいのです。

この宮殿は 主上に何かを与えるために貴女様をここへお連れ致したのです。

場当たり的な何かでは駄目ですよ。

心から欲するものを願ってくださいませんと、ここから帰ることは叶いません。」

その声には椅子に座りなおして、考えた。


心から欲するものとは何だろう?


場当たり的なものでは駄目だと言うのなら お金とかモノではないだろう・・・と、は考えた。

国の安寧とか朝の繁栄などは 今何よりが欲しているものだけれど・・・。

それを口にしようとしては思い留まった。

光明太師に それは国民がに願う事であって が他へ願う事ではないのだと

教わったので、ここでは無効だろう。

国を導き 自力で成し遂げなければらないことなのだ。

天帝を除けば 自身が桃末国では最高神に他ならないのだから、

他に願っても叶えられるはずはない。

神籍に身を置き、軍も官吏も国民も 全てを支配下に置いているのは、

他ならぬなのだから・・・・。





では 王としてではない望みと言う事になる。

今ここにこうして連れられて来て、個人の願いとは何だろうか・・・・と、は真剣に考えた。

そう・・・・何よりもまず桃源宮へ帰りたい。

これを願わずして 何を願おうと言うのか。

「では 私の願いは、桃源宮へ帰りたい・・・と言うことで お願いしたい。」

そう宙に向かい願いを口にした。

「ふむ、まずはそつないお答えですね。

ですが それだけでは 駄目です。

主上がお考えになったとおり 王としての願いはここでは無効です。

主上ご自身が 何故桃源宮へお帰りになりたいのか、そこが大事な点です。

いかがでございますか?」

簡単そうでいて 難しい問題だとは思った。

王に登極する事自体、が求めたわけではなく三蔵という麒麟が天啓をもって

求めてきた事のように思うからだった。

今は 自身も王として生きて行こうと思っている。

求められる事には慣れているが、桃源宮でが求めてもいい事は 

本当に少ない事に気付いた。

生きるために必要な事柄では駄目だろうと言うのはなんとなく判る。





沈黙してしまったに 姿なき声は痺れが切れたのか妥協案を示してきた。

「では主上、桃源宮で一番お好きな人を仰ってください。

もちろん、主上としてではなく1人の女性として慕って愛している人ですよ。

その方の傍にいるために帰りたいと仰るのなら宮殿へ返して差し上げましょう。

ですがその場合、条件として相手の男性が主上を王として敬愛しているのではなく、

同じように女性として愛していなければなりません。

相愛の場合のみ お返しする事が叶います。」

その言葉に は益々困った。

でも それで思い浮かんだ人は1人しかいなかった。

だが相手は麒麟だ。

王を慕い半身とまで言われるほど王に近い存在である。

でも 不思議と他の誰かの名前を言う気にはなれなかった。


「自国の台輔三蔵だ。」


悪意がない悪戯に近いものを感じて、正直に答えてみた。

クスクスと楽しそうな笑い声が聞こえて は少し不安になる。




「主上、どうぞお帰り下さいませ。

何故帰れるかは 先ほど話した内容でお分かりでございましょう。

どうぞ 桃末国をお願い致します。

そして 台輔とお幸せになられませ・・・・・。」

声が遠のいていくのと同時に 来たときと同じように周りが白くかすんで行く。

視界が開けてきたと思ったら、元の廊屋に立っていた。

それを確認した次の瞬間、誰かに抱きしめられた。

香の匂いで三蔵に抱かれているのだと何とか判るが、

身動きが取れないほど抱擁がきつい。

「大丈夫か?」

肩で息をするほど 走ってきたのだろう、息が荒く声が掠れている。

「うん、大丈夫 なんともないから、少し力を抜いて欲しい。」

の言葉に 三蔵は腕の力を緩めたが、抱擁は解かなかった。

「王気があちこちに移動するんで追っていたんだが、ひときわ強く感じたんで急いできた。

よく無事に戻ってこれたな。

迷い家に連れて行かれたのだろう?」

三蔵の言葉には顔を上げた。

「三蔵は あそこが何処か知っているの?」

の問いに三蔵は頷いた。




「俺も文献で読んだだけだが、『迷い家』は常世であって常世ではない世界らしい。

何処でもない世界と言った方がいいのかもしれないな。

自分を見失うと2度とは戻れなくなる。

帰ってくる者は少なく、多くは語られていない。

俺と桃末国は を失うのかと思ったぞ。」

三蔵の説明に はなるほどそういう事なのかと思った。

帰ってきた者が、多くを話さないのも自分には判る。

もまた 向こうで確認させられた自分の想いについて 話そうとは思わないからだ。

廊屋の向こうから何人もの足音がして 三蔵はようやくの抱擁を解いた。

ただ よほど心配なのか 手だけは袍衫の衣の下でしっかりと握っていてくれた。

何気ない仕草1つにも 三蔵の気持ちが込められていることに は嬉しくなる。



今はそれだけで 充分に幸せなだった。







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