No.88 髪結の亭主
仙として生きているからといって、全てが都合よく行くはずもない。
長く生きられると言うだけで、短い生を営む人となんら変わりはないのだ。
爪も伸びれば髪だって伸びる。
それゆえ手入れをしなければならない。
ある うららかな午後。
庭院で主上であるも髪の長さを整えてもらっていた。
女性の髪は結い上げるために短くはしないので、裾を整えるくらいの事だが
の黒髪は宮殿内の誰と比べても見劣りしないほどに豊かで美しい。
手入れに当たる女官達は、洗髪も梳くときも自分の髪のように大切にしていた。
その中に殊更髪を扱うのが上手な女官が居て、はいつもその女官に頼んでいた。
彼女は、白凰で髪結い処を営んでいたのだが、
婚姻した男性が甲斐性無しで婚姻を破棄し
ツテを頼ってこの桃源宮に職を得たのだ。
初めは、女官の中でも下官の髪結いを専門としていたのだが、
その腕の確かさを認められて
今では主上とそのお世話をする女官付きとなっている。
常世の国での婚姻は、制度上の便宜を図るためにされることも在る。
つまり、婚姻する相手に最初から愛情を期待しない場合もあるのだ。
婚姻すると同じ里に戸籍を持たなければならないため、移動が出来る。
生まれた里から出たい女性は、行きたい里に戸籍を持った男性との婚姻を望む。
その相手を探して婚姻を取り計らってくれる、許配(きょはい)なる仕組みまであるのだ。
希望する里に移動して目的を果たすと離縁する場合もある。
なぜなら離婚してもそのままその里に住むことになるからだ。
もちろん、愛情から結ばれて婚姻する男女もいる。
そんな男女でなければ、里木に子を願っても授からないのだ。
もっとも、里の移動手段に婚姻するような夫婦は、
里木に子を願うことなどないのだが・・・。
女官になると仙として生きなければならない。
普通の女性が得られる幸せや生き方を捨てるという事にもなる。
それゆえ、女官になって桃源宮に仕えている者の中には、
色んな過去を持っている者もいるのだ。
件(くだん)の女官は、愛情によって結ばれての婚姻だった。
つまり、好きで夫婦になったのだという。
だが、彼女の髪結いの腕が評判となって、
開いた店がにぎわい利益を上げるようになると、
何時しか夫はぐうたらな生活を送るようになった。
そのうち、妓楼に通いある妓女に入れあげた挙句に、
身請けをして世話をしだしたのだ。
彼女の我慢もそこが限界で、離縁をし相手の男から逃げる目的もあって
宮殿に職を得たのだと言う。
「女に稼ぎや技量があっても決して幸せになれるというものでもないのです。
随分昔の話ですが・・・。」と、女官は寂しげに笑って見せた。
重い花釵(かんざし)を髪から抜きながら、
は鏡に向かって映っている三蔵にその話しをした。
煙草を指に挟んでいた三蔵はやはり鏡越しにを見て、
「官吏同士の夫婦でも女房の方が高官になると、
メンツを気にして別れる男が居るというからな。
器の小さい男は、女の方が自分より秀でているのを認めねぇもんなんだろうよ。」と、
冷たく言い放った。
「三蔵は?」と、が尋ねた。
「三蔵は相手の方が自分より高位でも気にしない?」
自分でもその相手に成りえるのかと尋ねているも同然の質問だ。
この国つまり桃末国で台輔以上に高位の女性は、
をおいて他にはいないのだから・・・。
自分でそれが分っているのだろうか?
そうなりたいと思っているのだろうか?
問に問で返してもいいのなら、そう尋ねてみたいと三蔵は思った。
「気にしねぇ。
本気で好きな相手なら、自分より金持ちでも、高位でも、気にならねぇ。
俺にとってその女の心と身体は、金と位には代えられねぇからな。
はどうだ?
この国の主上であるお前より高位の男はいないぞ。
しかも婚姻は戸籍が無いから出来ねぇ。
どんなに求めても野合(やごう=婚姻外関係)になる。」
三蔵の挑戦するような言葉に、は鏡越しに視線を合わせて見つめあった。
未婚で玉座に就いたは、婚姻する事が出来ない。
それはつまり里木を通して天に子供を願う事は許されないという事だ。
ましてこの桃末国内により高位の男などいない。
否、高位の人間はいないというほうが正しいだろう。
「女王の男妾と呼ばれても良いという人などいないと思うから、
私が気にしなくても無理かもしれないね。
女性は愛する人のためならばどんな屈辱にも耐えられる人もいるけれど、
男の人は矜持が高いからそんな呼ばれ方をされるのと分っていれば無理でしょう。」
はそう言って薄く微笑むと、止めていた手を動かし始めた。
「では、男の方で『それでもいい。』と言えば、受け入れるのか?」
さらに尋ねた三蔵に、は驚いたような顔をした。
「わからない。
三蔵、麒麟として台輔として主上の私が誰かに心を奪われるのが心配なのは分るけど、
きっと誰も私の野合の相手になろうとなんてしないよ。
八戒や悟空をはじめとして私に深くかかわるみんなが、気を配っていてくれるもの。
野合するような相手が居なくても別に寂しくなんてないし・・・・。」
のその言葉を聞いて、三蔵の胸に安堵感が広がった。
花釵を外し終わったは、櫛を片手に髪を梳いている。
でも ふとその動きを止めて、何を思ったのか可笑しそうに1人で笑い出した。
「どうした?」
肩を揺らして笑い続けるに三蔵は問いかけた。
「くくっ・・・・うん、でも もし私にそんな相手が出来たとしてね、
その人もそれでもいいって言ったとしてもきっと大変だろうなぁって思って。
だって、三蔵をはじめとして八戒もお師匠様も悟空も悟浄も天蓬も捲簾も
みんな厳しそうだからね、きっとその人苦労するんじゃないかな?
三蔵、もし私にそんな人が現れたら、三蔵だけでもお手柔らかにお願いするね。」
何を想像しているのか、楽しそうに笑うを三蔵は呆れたように見ていた。
『三蔵だけでもお手柔らかに・・・・』
そんなこと今更言われなくても現実にそうしている。
今すぐに自分がその相手になったとしても、誰も何も言わないだろう。
既にお師匠様はじめみなが三蔵の気持ちなど承知しているからだ。
何も言葉にはしないが、その態度と気遣いに知っていて見守っている感がみえる。
後はの気持ち次第なのだ。
が自分より高位でも、里木で子供が願えなれなくても、それはたいした問題じゃない。
もう、を王として選んでいる時点で、自分はその足元に額ずいている。
そして『決してそばを離れず、命に背かぬ』と盟約しているのだ。
いくら惚れた相手でも男としてこんな事はしないし言わないだろうと、三蔵は思った。
男の矜持など、捨てているのだと三蔵は改めて思った。
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