「乾坤一擲」(けんこんいってき)
(NO.76 影法師)
変化に乏しい会社の内勤仕事でも、人の動きはあるものだ。
寿退社に新入社員、臨時採用に転勤。
稀にだが助っ人として派遣社員が来ると言うこともある。
そんな中、取引先の担当の社員だって、異動や転勤で顔ぶれが変わることがある。
その人、名を猪八戒と言うのだが、前任者に連れられて挨拶に来社したときには、
独身ならずとも既婚者さえも女性と名が付く職員は瞳がハートになっていたと、
今でも時折課長が思い出して笑うほどだ。
彼が顔を見せれば、そんな空気が課内を覆う。
そしてその担当者である私と上司は、みんなに酷くうらやましがられた。
長身で痩身な体躯、癖の無いまっすぐな黒髪。
そんな優しげな風貌の癖に、仕事だけはずば抜けて出来る。
物腰柔らかく人好きする笑顔がさまになっている。
適材適所とは言うけれど、彼ほど営業に向いている人もいないんじゃないだろうか。
仕事の取引で付き合うことになった私の彼への印象はそんな感じだった。
きっと、自分の会社やうち以外の取引先でも
女の子からのアプローチが凄いんだろうなぁ・・・と、想像していた。
向こうは取引相手といっても男性社員のような接待が必要なわけではないので、
これと言って仕事で会う以上の付き合いが生まれることは無い。
女性社員への接待は、せいぜいが甘味の差し入れくらいのものだ。
最初は本当に事務的な会話だけだったのに、彼の人柄に触れているうちに
段々と親しくなり、いつの間にか「さん」「八戒さん」と呼び合うようになっていた。
でも それ以上にはならないように気をつけていた。
だって、私は八戒さんよりも2歳年上だし、そうでなくとも彼はもてる。
私なんかは彼の眼中にないだろうと思ったから。
そのうちに私の上司でその担当の責任者をしていた女性が退職し、
その商品についてよく分かっていると言うことから、発注を含むその商品の開発や
改良までを私が担当するようになった。
益々、八戒さんとは細かい打ち合わせや会話が増えて行った。
彼が会社へ来ると、2人で会議室の大きなテーブルに商品を並べて、
他社の製品と比較したり使い心地を試したりする。
製品を見るときは、指先や手が触れ合うこともある。
それこそお互いの頬がすぐ傍にある位まで寄り添う事だって。
でも それだけ。
そんな時、ドキドキしてしまって指先が震えないように気をつけているのは、
きっと私の方だけだろう。
彼は・・・八戒さんは、何事もなかったように話を続けていられるのだから。
それに付いて行くだけで今の私には精一杯なのだけれど、
そんなことは悟られたくなかった。
少なくとも仕事上の付き合いは、上手く行っている。
意思の疎通も出来ているし、業績だって上げている。
私の気持ちを知られてしまうことで、この状態をまずくしてしまうのは嫌だった。
彼女や恋人にしたいなんて思ってもらえないだろうけれど、
せめて仕事のパートナーとしては好意的に見てもらいたい。
そう思って仕事の付き合いだけは良い関係でいようと、自分を慰めていた。
ある日。
八戒さんと2人だけの会議室でのこと、
「今度の展示会へは、さんが出向かれるんですか?」と、彼が尋ねてきた。
各会社が商品を持ち寄って開く見本市のことだ。
去年までは、前任者が出向いていたのだ。
今年は私が行くことになるだろう。
「えぇ、多分。まだ詳しいことは決まっていないんですけど。」
「商品の搬入や搬出を考えると、今年の会場は自宅から通勤と言うわけには
行かないかもしれませんよ。」と、八戒さんは困ったように微笑んだ。
「そうなんですか?」
「えぇ、僕がつかんでいる情報によると、今年は来春開催の万博のことも絡んで、
名古屋で開催するみたいですよ。
ブースの設営のためには、少なくとも前日の午前中入りになりそうですね。
展示会は2日間ですから、まあ前後で4日間の出張と言うことになりますか。
月曜日から木曜日までですし週末には間に合いますから、
彼氏とのデートの予定はキャンセルしなくてもよさそうですね。」
好きな人にそんな誤解されているようなことを言われて、喜ぶ女はいない。
まして今まで八戒さんがプライベートなことに触れてきたことがなかったので、
その意外性に反応が遅れた。
「だっ・・・大丈夫ですよ。
そんなデートなんてする相手いませんから。
たとえ土日に展示会があっても誰にも迷惑をかけません。
八戒さんこそ、此処までお仕事が忙しいと恋人に会えないんじゃないですか?
うちにだって、多いときで週に3回位来てるでしょ。
他の会社も同様に回っているのなら、毎日帰社してから残業でしょう?」
なんだか必死で言い訳して話を逸らそうとしているみたいで、自分が滑稽に思える。
こういう言い方をすると、まるで男の人から相手にされていない寂しい女みたいじゃない?
それも誤解されそうで嫌だな。
どう言ってもむなしいような気がして、それ以上の言葉を口にすることをためらった。
「本当に誰もいないんですか?」
「えっ?」
「だから、デートの相手ですよ。本当に誰もいないんですか?」
そんな『もてない女』決定みたいな、そんな事を聞き返すなんて八戒さんともあろう人が、
デリカシーに欠ける質問をして・・・・と、自分の質問は棚に上げたうえに
恥ずかしさも手伝って、私は彼をそんな風に思った。
「いません。今そう言ったばかりじゃないですか。
それに独身の女に対して、職場でそんな質問や話題は
セクハラだって知ってますか?」
けん制の意味もあって、彼の顔をキッと睨んでみた。
そんなことどこ吹く風とでも言うように、八戒さんが落ち着いているのが
妙に癇に障って仕方が無い。
まるでからかわれているような、もてあそばれている様な気さえする。
いや、きっとそうなのだろう。
「この場合はセクハラにはならないですね。」と、彼はやっぱり落ち着き払って言った。
喧嘩を売られているのかしら?・・・と、頭の隅でチラッとそんなことを考えた。
否、私が喧嘩を売るように仕向けられているのかもしれない。
せっかく今まで上手く行っていたのに、此処で八戒さんと喧嘩するのは良くない。
私の仕事は他にもあるけれど、彼と組んでいるこの商品のことがメインになっている。
良くて担当換えか社内異動、悪くすれば退職勧告にもなりかねない。
そう考えた時、背中にゾワリと悪寒が走った。
転職できない年齢ではないし、それなりに実績もあるし資格も持っている。
本気で転職しようと思えば、出来ないことはないだろう。
でも前の会社を辞めた原因が、取引先相手の担当社員との喧嘩と言うのは、
次の会社の人事だって採用に難色を示すに違いないからだ。
まったくの分野違いの会社に転職するよりもやっぱりこの業界の関連企業へ行きたいと思う。
せっかく培ってきたこの業界でのノウハウや人脈を捨てるつもりは無い。
そうなると、彼と喧嘩するなんて事は、愚か者のする行為と言うことになる。
私はそう判断した。
私が八戒さんに何か気に入らないことをしたのかもしれない。
彼の普段からの態度や仕事振りを考えると、どうしても非は私にあるように思った。
何をしたのだろうか?
此処暫くの八戒さんとの仕事の内容や会話を思い出して、その中に彼が気に障るようなことは
なかったかと頭の中で検索をかけてみる。
該当案件は浮かばない。
もう少し検索の幅を広げて、八戒さんではなく彼の会社や部署まで心当たりがないか
探ってみるけれど、やっぱり何も浮かばない。
困ったことになったな・・・・・と、正直言うと思った。
だけど、自分に心当たりがなくても人を怒らせたり不快にさせることは無いとは言えない。
そんな時は、素直に詫びる以外にないと思った。
「八戒さん、私が八戒さんの不興を買うようなことを、何か言ったりやったりしたのでしょうか?
もしそうなら、お詫びいたします。
私に出来ることなら直しますし、出来ないことなら課長に言って担当を外れ、
八戒さんが仕事をしやすい者に代わります。
個人的なことじゃないのなら、それこそ課長と相談させて頂きますから、
どうぞ何でも仰って下さい。」
お詫びの意味も込めて、頭を深く下げてそう言ってみた。
八戒さんの今までの態度から言って、素直に謝れば許してくれると思ったからだ。
それに彼らしくないと思っていた。
そう、彼らしくない。仕事のことなのに真っ直ぐに切り込んでこないのもらしくないし、
今まで仕事にプライベートな話題は持ち込まなかったのだ。
それを今回は、セクハラと言われるような内容の話を持ち出して、
私を怒らせようとまでしているみたいに見える。
「あぁ、さん違うんです。
僕はそんな意味で恋人の話を持ち出したのではないのです。
いやぁ〜、困ったな。
まさかそんな風に取られてしまうとは、予想できませんでした。」
八戒さんの言葉に頭を上げて彼を見ると、笑ってはいるけれど困ってもいると言う表情だ。
「どう違うんですか?」
ここは話を聞いてからでなければ、何かいうことは出来ないと判断して、
八戒さんが説明をしてくれるのを待つ。
「あのですね、さんが仰るセクハラと言うのは、
『男性がことばや行動により女性の嫌がることをしたり、
自尊心を傷つけたりすること』って意味ですよね。
僕にはそんなつもりはまったく無いんです。
だから『セクハラ』にはなりません。
でもさっきの僕の質問がさんにはそんな風に受け取られたのなら謝ります。
僕の聞き方もまずかったようですしね。」
反省している個所がなんだか的外れな八戒さんだと思った。
「じゃあどうして、彼氏だとかデートだとかプライベートな話題を持ち出したんですか?
八戒さんって今までそんなことは仕事に持ち出さなかったじゃないですか。」
そう、そこの所が聞きたいと思っていたのだ。
「それはですね、さんに休日に特別に会う男性がいるのかどうかが、知りたかったんです。
こうして一緒にお仕事をして親しくしていてもさんは他の女性社員のように、
僕を食事や映画やデートに誘って下さらないですからね。
お誘いがあれば、それは恋人や意中の人がいないって事になりますから。
そして僕に少なからず好意を持っていて下さるという事になるでしょう?
結構、長い間待ってみたんですよ。
でも 待てど暮らせどそんな素振りすら見せて下さらない。
前任者が退職されて、前以上に親しくなっているというのにです。
ですから、此処は僕からアプローチしないことには始まらないじゃないですか。
今度の展示会はいい機会だと思ったんです。
さんに誰か恋人や好きな人がいても僕に振り向かせるチャンスですし、
いないのなら公私共に楽しい出張になりますからね。
だから、思い切って僕から仕掛けてみたんです。」
そう言って八戒さんは、それはそれは素敵な笑顔でこちらを見た。
「あ・・・あの、本気ですか?」
「もちろん、本気です。
自分で言うのもなんですが、僕って結構お買い得だと思いますよ。
さんを誰にも渡したくないって気持ちは、他の人には負けない自信もありますし、
時間さえ頂ければ僕の気持ちを分かりやすく証明して見せます。」
「証明出来るんですか?」
愛する気持ちを証明して見せるといった涼しげな顔に思わず見惚れてしまった。
「はい、ですからそのためには時間を頂かないと駄目だと思うんです。
僕と食事をしたりお話したりしてもらうには、時間が必要ですから。
此処じゃこれ以上の会話と行動はそれこそセクハラになっちゃいますから我慢しますけど。
どうです、先ずは今夜一緒に食事でも・・・・ね。」
最後の「ね」のところで目の前に迫られて、知らず首を縦に振ってしまった。
「ありがとうございます、うれしいです。
これで名古屋の出張も楽しいくなりますね。
あっ、ホテルが決まったら教えて下さらなきゃ駄目ですよ。
僕もおんなじホテルにしますから、いっそのこと新幹線も同じに・・・・・・。」
仕事では私の方が発注側なせいか主導権を握っている感じでいたけれど、
そして八戒さんも私に合わせて仕事をしていてくれたけれど、
やっぱり恋人だと全然違うんだと思った。
私を置いてきぼりにしそうな勢いで話がどんどん進んでいく。
年下なんて全然関係ない。
やっぱり男の人なんだと思い知った。
せめて彼の影法師が見えるくらいのところで付いて行かないと置いて行かれるかもしれない。
ふとそんな気持ちになった。
夜道で一人残されてたたずんでいる子供のように心もとなくなる。
「あの・・・置いて行かないで下さい。」
思わずそう言って八戒さんの話を遮った。
「もちろんです、置いてなど行きません。
あんなに願ったさんとのお付き合いが叶うんですから。
もう、そんなに可愛い顔をして・・・・困らせないで下さい。
さん、仕事中ですが少しだけ許して下さい。」
八戒さんはそう言って私の返事を待たずに、そっと肩を抱き寄せた。
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「乾坤一擲」=運命をかけて、大勝負をすることの意。
乾坤は天と地または世界。擲は投げ打つの意
「ねこしゃん堂本舗」ねこりきょー様との相互リンク記念に献上