No.59 グランドキャニオン
(「Private Detective ZERO」本編完結後の八戒視点)
どんなに時間を共にしていても 人の心というモノは手に入れられない事も
あることは知っている。
男と女は、長年一緒に居ても男女として成り立たない関係と言うのもあるし、
かと思うと出会ってすぐにそうなってしまう事もある。
こんな商売をしていれば、そんな関係になった男と女を
数限りなく見て来たと言っても過言では無い。
結婚後の浮気の言い訳に、
この人が運命の相手であると思うような人と出会ったとか。
この場合は、浮気にはならなくて 本気だったが・・・。
先に出会っていたからと言って、恋愛に有利というわけではない。
少なくとも今回はそういう時差は自分たちにはなかった。
皆が同時だったはずだ。
スタートした時点では、絶対に自分の方が有利だと確信していただけに、
ゴールしてみたら自分が先頭でなかったと知るのは辛い。
まして 三蔵は最初の頃には、レースを投げていた感さえあった。
相手は常に見えている。
でも それは表面上のことだけで、実際のレースは見えないところで行われているのだ。
まるで、山の頂上を目指して登るのに、全員が違う登山口から入山するのに似ている。
目指す場所は同じで目的も同じだけれど、経路と方法が違うと言った感じだ。
自分は、例えれば・・・なだらかだが時間がかかる道を選んだと思っていた。
多分、所員の中では一番近くで長い時間を共にする人物だったはずだ。
だが 一緒に居るからこそ有利であり不利であることも承知していた。
まず 一緒に長い時間居ると言う事は、親しくなりやすい。
それに、会話も多くなり情報も得やすい。
友人から始まった恋は、お互いが掛け値なしで見てからの事なので、
一気に燃え上がる事は無いかも知れないが、こんなはずではなかったと言う事は少ない。
穏やかだが、お互いを良く知っているからこその恋を育む事が出来る。
だから ゆっくりと育んでいたはずだった。
不利な点と言えば、『良い人』止まりになりやすいと言う点だろう。
『同じ釜の飯を食った〜』と言う表現をするが、それに近い感覚が芽生えやすい。
つまり あまりにも近すぎて肉親化してしまうのだ。
兄や父に恋をする事は、無いに等しい。愛してはいても 愛情の種類が違うのだ。
でも 親兄弟にはなれないので、『良い人』になってしまう。
『良い人』は、恋愛と言う感情の対象外にされてしまう。
砂地に濁流が流れる時、水は何をもってその流れる道を決めるのだろう。
三蔵との2人と、自分と悟浄と悟空を隔てた水の流れは、
着けた流れを深くえぐって渓谷にしたらしい。
対岸と言ってもいいほど近い距離に居ながら、
飛び越える事が出来ないほど深く広い谷。
目には見えなくても 同じ職場に居て 時にペアを組んで仕事をすれば、
否が応でもそれに感づいてしまう。
の三蔵と自分に対する態度の微妙だが、決定的な違い。
どうやら取り返しがつかないところまできているらしいと、見て取れる。
目を離したつもりは無いが、いつの間にそんな事になったのか。
しかし そう思ってみればは、最近ひときわ輝いて綺麗になったように見える。
前から綺麗だったけれど、ここの所は蕾が花開いたように感じる。
幸せな甘い恋の香りがするとでも言えばいいだろうか。
まあ はともかく、あの三蔵を素直に祝福してやるなど
とてもそんな気分にはなれない。
不器用で感情表現が恐ろしく下手な三蔵が、
イチャイチャ ベタベタ ラブラブなど出来るはずがないことは
充分に察する事が出来る。
人前でなどと想像するだけで此方の方が寝込みそうなほどだが、
と2人きりなったとしても
甘い恋人にはなれそうもない事は想像に難くない。
が、どんな恋人を望んでいるかはまだ分らないが、
三蔵が若い女性の求める恋人になどなれない可能性は高いことだけは確かだ。
そうなれば、ひょっとするとチャンスが残っている。
たいていの女性は、三蔵のあの顔と姿に惚れて口説いたり擦り寄ってくるのだが、
いつも機嫌の悪そうな態度と冷たい言葉にすぐに離れて行ってしまう。
よほどに三蔵を知っていてあの態度に耐えられないと、付き合うことは出来ないだろう。
そこが狙い目だと、考えはまとまった。
雨や嵐で河が氾濫すれば、水はいとも簡単にその流れを変えることもあるのだから。
珍しく暇な日だった。
悟浄と悟空はその日休みを取っていた。
仕事がないわけではなくその日はデスクワークだけだった。
まあ、要するに報告書をまとめたり 請求書を書いたりするのだが、
これが意外と厄介だったりするのだ。
事務所には、自分と三蔵との3人。
オーナーさえ何処かに出掛けていなかった。
年に何度かこんな動きのない日もある。
3人は、それこそ黙々と書類の山を片付ける。
午後3時になり、は時計を見て椅子から立ち上がった。
お茶かコーヒーだろうと思った。
そろそろ欲しいな・・・と、思っていた。
彼女は、「お茶にしませんか?」とか「休憩しましょう。」とか声をかけない。
黙ってその日の天候やみんなの様子(つまりは疲れ具合)、
お茶菓子を見た上で飲み物を選択する。
そして、「どうぞ。」の一言だけを添えて、邪魔にならない机の端に置いていく。
やっぱり その日もいつもと同じようにコーヒーを淹れてくれた。
数枚のクッキーが添えられている。
甘さを抑えたジンジャークッキーのようだった。
いつもなら菓子を一口食べてから飲み物を口にするのだが、
空腹をそれ程感じていなかったせいか
淹れたばかりのコーヒーから口をつけた。
コーヒーの淹れ方は自分が教えた。
馴染みの店でどの豆を買うとか、ブレンドの割合とか、挽き方の注文とかも全部だ。
つまり 自分の味と言っても過言ではない。
悟浄も三蔵も煙草を吸って舌を荒らしているくせに、味には煩い。
彼らの舌を満足させる味に到達するまでは、結構試行錯誤した覚えがある。
菓子を口に含んでいない分、ダイレクトにその味が分る。
が入れたコーヒーは、いつもの味ではなかった。
正確に言うと、自分が指定した豆ではなかった。
自宅でも同じ豆を使い舌に馴染んだ味を飲んでから
出勤しているのだ、間違うはずがない。
三蔵はどんな反応をするだろうと、口にしたカップ越しに三蔵を横目で見る。
書類を片手にしながらもカップを口に運んでコーヒーを飲む彼の顔色を伺う。
どんな反応を見せるだろう。
口中にコーヒーが無くても唾を飲み込むだけで喉がなった。
一口飲んだ三蔵の動きが一瞬だけ止まり、目がを見た。
だが、三蔵が不機嫌になるとか、文句を言うとか、それを飲むのを止めてしまうとか、
そういう期待した反応はまったく無かった。
黙って、そのまま最後までコーヒーを飲み干した。
そして、あろうことか「おかわり。」と言ったのだ。
「はい。」と、はトレイにマグを乗せると、給湯室へと向かった。
三蔵の態度を不審に思って、に聞こえないように小声で話しかけた。
「三蔵、このコーヒーいつもと違いますよね。」
「あ? あぁ。」
まるで知っていると言わんばかりの態度だ。
「いつもの方が良かったら、ちゃんと言わないとこのままこのコーヒーを飲むことになりますよ。」
非難しようと思ったわけではないが、そんな意味合いの言葉を使ってしまった。
「不味いのか?」
まるで自分が淹れたコーヒーをけなされているのを怒るような反応に、
「いえ、そういう訳ではないです。」と、いささか矛先が鈍った。
三蔵は、言おうかどうしようかと迷っているように天井を見た後、
「使っている豆は、俺がうまいと言った店のブレンドの味だ。」と、ぽつりと言った。
確かにこのコーヒーは旨いと思ったが、
ブレンドの豆の混ぜ具合は教えたがらないのが普通だ。
コーヒー専門店なら尚の事。
大事な企業秘密に近いからだ。
この味は大手のコーヒーメーカーのものではない。純粋にオリジナル。
がどうやってそのブレンドの混ぜ具合を知ったのか、
はたまた豆を直接分けてもらっているのかは謎だが、
自分が教えたモノを変えたのは三蔵のためということは疑いようもない。
すごく分り難い愛情表現だが、三蔵はちゃんとの意を汲んでいるようだ。
それゆえの『おかわり』であると思った。
どうやら、思っているよりも谷は深く広いらしい。
自然と溜息が漏れた。
少しくらいの雨や嵐による氾濫は、より谷を深く刻む事になるだけになりそうなのを悟った。
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グランド‐キャニオン [Grand Canyon]
米国アリゾナ州北部の大峡谷.長さ350km, 深さ300mを超える絶壁が
地層ごとに彩りを変えて連なる偉観は世界的に有名。
1919年から国立公園に指定。
