NO.38 地下鉄
駅で切符を買うのにさえ 決心をしなければならないような旅立ちだった。
折に触れ思い出し 自分は決して忘れなかった約束だけど、
天蓬は 昔からどこか抜けているような所があったから、
もしかしたら 忘れているかもしれないと思った。
まだ少女だった自分との約束など忘れてしまっていた方が いいかもしれない。
そう何処かであきらめている 自分がいる。
友人たちがうらやむような相手との恋愛にも何処か冷めているように感じるのは、
天蓬の存在と彼との恋愛が、自分の中で昇華されていないせいだろう。
胸の中で燻り続けているこの火を どうにかしなければならないと思い、
は動き出した電車の動きに身を任せた。
瞼を閉じれば 10年前のあの日が今もよみがえる。
「10年後に ここでもう一度会いませんか?」
別れ際に天蓬は 何気なくそう言った。
あの時は 別れる事の後ろめたさと 寂しさを紛らわすための決まり文句だろうとしか
考えなかったけれど、それを約束としてとらえていた自分に
なぜが笑いがこみ上げる。
馬鹿な女。
そう呼ばれることが 相応しいとさえ思う。
何を10年も前の小さな約束に、ここまでこだわっているのだろう
だって 今も充分に幸せなのだ。
指輪を買って 籍を入れようと申し出てくれる彼氏。
君でなければといわれる仕事。
それ以上に何が望みというのだろう?
昨日塗ったばかりのネイルカラーに目を落として、は少し微笑んだ。
目的の駅に着くと 人波に押されるように改札へと足を向ける。
いつもの通路を通り 約束の場所へと足を運ぶ。
同じ駅の構内なのに生活に関係のない路線で少しも使わないせいか、
さすがに10年前よりも古くなってくたびれているように見えた。
一言に10年だ。
だけど 1人の人間を根底から変えてしまうには充分な時間。
天蓬は変わっただろうか?
天蓬から見て 私はどう変わっただろうか。
その事が妙に気になった。
ちゃんと大人の女性として天蓬の心をもう一度とらえる事が出来るか・・・と、
もう一度 恋に落ちてくれるか・・・と、気になった。
そんな事を気にしているなんて、自分の厚かましさに思わず笑みが漏れる。
乗換駅でもあるその駅は 幾つもの路線が乗り入れていて、
誰も彼もが いつも人生の分岐点にいる所。
あの日の私達も きっとそうだったんだろうと思う。
2人とも別々の路線を選び 旅立ったはずなのに、またこうしてここへ戻ってきた。
それが良いのか悪いのか・・・・・。
階段を上った先は 地下鉄の改札口のはず。
あの日 別れた場所。
そして 今日会う約束の場所。
何をどう期待しているのか自分でも判らないままに 視線で天蓬を捜す。
約束の時刻にはまだ間があるためか そこに彼の姿は認められなかった。
その場所に足を進めようとして ふと立ち止まった。
もし 彼を選んだとしたら 今の自分はどれだけのモノを捨てる事になるだろうと・・・・・。
今の恋人とは別れなければならない。
その状況によっては 仕事も住んでいる場所も・・・・・。
捨ててしまえるだけの価値が今の彼にあるのだろうか?
どんな風になっているかも判らない男に会って どうするのだろうと疑問がわいた。
立ち止まったままの足が 前に進まなくなる。
今なら帰ったとしても何も悪く言われない 天蓬にも自分がここへ着たかどうかなんて分らない。
10年も前の再会の約束など忘れた事にしても 天蓬も責めないだろうとは思った。
改札から溢れる人波の中に 天蓬の姿を見つけた。
直前まで この場から去ることも考えていたというのに の足は前に進むことを選んでいた。
会いたかったんだ・・・・そう自覚させられる。
10年間もの間 ただ 天蓬に会いたかった自分を自覚する。
今の彼を知るのは これからでいい。
今後をどうするのかも 天蓬と話してからでいいとは思った。
「、綺麗になりましたね。」
まず天蓬がかけてくれた言葉で、彼に自分がどう見えているのかを知って、
は自然に笑顔になれた。
「天蓬だって いい男になったよ。」
そう返すと彼も笑顔を見せる。
2人の間に横たわっていた時間は 無意味なものに変化する。
だが 無視も出来ない・・・・これから何を選ぶのかで 未来が変わるだけではなく
それに巻き込む人もいるのだから・・・・。
2人は 10年間の時間を埋めるようと、構内にある喫茶店に腰を据えた。
すぐに肌を重ねる事も出来たが、あえて それを忘れているように振舞う。
一度重ねてしまえば 後戻りできなくなるのは分っていた。
あの時は 若さゆえそれを無視して別れられたから こうして10年もの歳月を置いても
顔を合わせることが出来たが、今度はそうは行かないだろう。
身体からの要求にしたがって 抱き合うのではなく、
今度触れるときには お互いの心を求めて抱き合う事になるから・・・・。
だからこそ 納得した形でなければ 駄目だと知っている。
ここからもう一度始まるか ここで終わりにするか見極めるための大事な時間。
「正直、僕はが来ないのではないかと思っていました。
今現在が幸せなら 僕との再会は必要ないことですからね。
僕もここに来るまでに ずいぶん自問自答を繰り返したんですよ。
それでも どうしてもに会いたかった。
会ってどうしたいのか よく分からなかったんですが、
こうして目の前にすると との未来が欲しくなりました。
ですが 僕だけその気になってもこればかりはどうしようもありません。
の気持ちを聞かせてください。」
天蓬は そう言っての手に自分の手を重ねた。
の身体に再会してから初めて天蓬の身体が触れた。
平静を装ってはいるが、天蓬の手の平は汗で少し冷たかった。
冷静で 思慮深くて 知性が豊富なこの天蓬が、手の平に汗をかくほど口にした言葉は重く、
行動に移した手は 彼の気持ちを代弁しているのだと、は思った。
自分の手の平を返して、天蓬の手を握る。
顔をあげ彼と視線を合わせると、薄く微笑んで重ねていた手での手を握ってくれた。
もその天蓬の手に指を絡める。
そこに言葉は必要なかった。
なにも言わずに見つめあう。
何かを具体的に口にするのは 今 2人が捨てようとしているモノへの裏切りとなる。
それが分っている2人だから、それでも それを実行に移す事を選んだ2人だから
ただ微笑み合って手を硬く握り合った。
「次に会えるのはいつになりますか?」
天蓬が の気持ちを察して、次の逢瀬を尋ねる。
次に会うときは 2人で生きると決めた第1日目になる。
だが、そのためにはお互い今の生活と決別しなければならない。
「天蓬と行くためには、私なりにけじめをつけなければならない事が多くあるの。
次に会うまでに 2ヶ月頂戴。
それで 貴方と共に行ける。」
の言葉に 天蓬は黙って頷いた。
そして片手で携帯を取り出し覗くと、スケジュールを開いて確認する。
そういうところは相変わらず几帳面な彼の性格に、背徳的な約束をした緊張がわずかに緩む。
身の回りのことや 自分自身には少しも発揮されないが、
誰かが絡むと曖昧さを許さない切れる男が姿を現す。
「では 2ヵ月後・・・・あぁ、その日は貴女の誕生日ですね。
僕たちが生まれ変わる日に相応しい。
その日に 同じ場所、あの地下鉄の改札口で同じ時間に待ち合わせしましょう。」
そう確認するように視線を合わせてから言った。
10年ぶりの短い逢瀬は終わりを告げた。
2人は立ち上がり それぞれの元居た場所と生活へと一度は帰ることにする。
通いなれた私鉄への連絡通路を歩きながら、はふと振り返った。
そこには こちらを見てたたずむ天蓬が居た。
今度の約束の方が 実行に移すには辛く遥かに遠いように感じられるが、
彼の眼差しは たがえる事を許さない光を宿しているように感じる。
天蓬の唇が『、待ってます。』と、音のない言葉を紡いだ。
答えるように頷いて また は歩き出す。
「天蓬と約束をして別れるのは これで2度目ね。」と、は1人つぶやいていた。
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99999番キリリク 碧様でした。
碧様にはリクエストとご申告いただきありがとうございました。
リクエストは「冷静と情熱のあいだ Rosso」風でと言う事で承りましたが、
勉強不足でリクエストに充分にお答えできず、誠に申し訳なく思っております。
オマケにとても長い事お待たせして ごめんなさい。
悲恋とも言える原作ですが、
そこは変更可能ということでしたので お言葉に甘えました。
碧様に限り お持ち帰り可とさせて頂きます。
