No.15 ニューロン
神経元、神経単位。
神経細胞とそれから突起している神経繊維(軸索)から成る1個の細胞。
雲の流れが速い。
走る車の助手席から見てもその流れの速さが分かるというのは、かなりの早さだろう。
しかも、その色が墨を流したごとく暗く沈んでいけば、
この屋根のない車特有の心配をしなければならなくなる。
思わず「ちっ。」と舌打ちをした。
隣で運転を担当しているこの車の持ち主は、それを耳にして
「次の町まではもうすぐですから、何とか持ってくれるといいのですが。」と、
前方を見ながらも空へも視線を向けている。
思えばこの男だって雨は苦手なはずだ。
少なくともいい思い出ではないのだから。
肌の上を滑っていく空気にさえも、わずかに湿気を感じる。
もうどこかでは降っているのだろうか。
乾いた地面を洗った匂いが混じっているような気がする。
失った人を思い出す。
失った夜に雨が降っていたせいで、その喪失感を思い出すのは雨の夜ばかり。
あの夜に雨が降っていなかったら、どうなのかは分からないけれど。
事実として、雨が降っていた。
どちらにしても思い出さないことなどありはしない。
人の脳は記憶の連鎖が好きらしい。
雨からあの夜を思い出して、どうすることも出来なかった無力な自分と、
師父の大きい存在に思いは至る。
こうしているのも師父あればこそと。
あの大き過ぎた犠牲に俺はみあうのだろうかと、自問自答する。
答えなど出せないことを承知で。
たとえそれを尋ねたとしても、応えてくれる者など居ない。
居たとしてもその答えは俺のためのものじゃないと思うが。
今夜の雨は嵐と呼んだ方がふさわしいと思う。
何とか降り出す前に宿へと着くことが出来て、濡れずに済んだ。
窓の外からは横殴りに降る雨と雷鳴が聞こえている。
時々走る稲光は、青白く夜の闇を切り裂き窓のガラスを揺るがすほどの音を響かす。
こんな夜は師父ではなく、その姿を思い出すと心のどこかが甘酸っぱくなる奴を思い出す。
今はどうしているのだろう?
師父亡き後、飛び出すように金山寺を出た俺は、こうして三蔵を名乗っていても
他の三蔵と親しく交わることもない。
その後も斜陽殿で使役としての任務が忙しい。
だから、奴の師である三蔵法師がどうされているのかも知らない。
つまりはその弟子であるあいつがどうしているかも分からない。
まあ、殺しても死なない程度に強かったとは思うから、
今の桃源郷の状況でも命を落としているようなことはないと思うが。
それでもあの秘密を抱えたままで、どうやってこんな夜を過ごしているだろう。
子供の頃のように一人で布団の中で耐えているんじゃないかと、思ってしまう。
もう、十分に成長して大人の女になっているはずだから、
そんなことは無いだろうと思うのに。
彼女らしくないほどに弱くて守ってやりたかったあの部分だけは、
今でも変わっていて欲しくないと、どこかで思っている。
やはり、誰かに共鳴しないように抑えてもらっているのだろうか。
俺があの夜やったやり方で・・・・。
それを思うと自分らしくない感情が湧き上がる。
でも、もう関係ない・・・・・あいつがどうなろうと。
今の俺にはどうしてやることも出来ないのだから。
そう、頭では分かっているし、ましてやこんな旅の空の下では、
何を思ったって身動きすら取れない。
俺が出来ないのなら、俺以外の誰かに抱きしめてもらっているのなら、
あいつが今このときだけでも幸せにあって欲しいと。
せめて、そう願うことくらいは許されるだろう。
あの夜のことは、忘れようとしても忘れることなど出来ないだろう。
今までだってそうだったのだから、きっとこれから先もそうに違いない。
きっとこんな夜には、あの暖かくて柔らかい華奢な肩を思い出す。
俺よりも小さく非力な手を。
あの唇から発せられた甘い嬌声を。
何も分からずに奪ってしまったとはいえ、全てが欲しいと思った相手だ。
その全てを自分のものにしたいと。
自分がこれから進むだろう道に、そんな想いや存在は邪魔になるだけだと
十分に分かっている。
そんな想いはいっそ捨ててしまった方がいいことも。
既に殺生をし飲酒し、僧とは名ばかりの破戒僧だとはいえ、
僧である限りを幸せにしてやることなんて出来ないのだから。
ただ、こうして足止めを余儀なくされてしまう西への旅の途中、
疲れた身体を横たえ、ひとときの休息を与えられてしまう雨の夜には、
脳だけがいつもよりその活動を活発化させる。
何時も何かを考えていなくては落ち着かないのか。
雨と雷鳴に刺激されたのか、なぜか今夜はのことばかり。
「わいてんじゃねぇ。」
そう自分自身につぶやいて、手にした吸殻を灰皿に押し付ける。
そこは既に山と化していて、部屋の中は霞がかかったように白くなっている。
同じように雨が苦手なあの男が入ってくれば、雨が降っていようとも
小言と同時に目の前で窓を開けるに違いない。
だが、八戒だって平気そうには振舞っても今夜はきっと傷がうずいているだろう。
身体のだけではなく、心の傷も一緒に。
ただ、俺よりも誤魔化して隠すのがうまいだけだ。
本当はもっと酷いのかもしれない。
失った相手と過ごした時間が甘い分だけ、痛みは切なさも伴ってくるだろう。
は、失ってしまったわけじゃない。
今は、見えないだけだ。
どうしているのか分からないだけだ。
そう考えれば、未来のどこかで道が交わっているかもしれないと言う希望も湧く。
そのくらいは許されるだろう。
誰も帰りを待ってなどいない旅では、こんなことでも思わなければ
どこかで自分を失ってしまいそうになる。
自分勝手に彼女の存在を利用してしまう。
もし、このまま途中で俺が倒れるようなことがあったとしたら、
他の誰かがこの任務を請け負うのかもしれない。
だが、悟空や八戒や悟浄が、その誰かと供に行くようなことはまずないだろう。
だとすれば、俺以外にこれを成し遂げられるような者は居はしない。
まずは、この任務を全うして無事に帰らなければ話にならない。
にもう1度巡り会うためにも・・・・・。
そう考えたいのかもしれない。
暗い闇に覆われた未来を連想してしまいそうになる思考の悪循環に、
瞼を閉じれば浮かんでくる馬鹿面なくせに可愛かったの顔を思い出して、
無理やりにでも自分を浮上させようとしてみる。
意地っ張りで強情なくせに、俺とは違う甘い匂いのする身体を持った。
彼女に会うためになら、顔を上げてこの部屋を出て行けそうな気がするから・・・。
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