代印

コツコツコツ・・・
静かな廊下に靴音がただただ響く。今は授業中なのだ。
誰も自分のことを見ている人間などいないと分かってはいるが、
なんとなく誰かに見られているようなそんな錯覚に陥る。
それはこれから自分が学校という特異な空間で、
まれにみる大胆な行動を起こそうとしているからだろうか・・・。
目的の部屋は2階にある。
協力者に頼んで部屋の主にはその城を明け渡していただいた。
・・・・・まったく、なんだって俺が・・・・。
ちっと舌が鳴る。
ーーー急に倒れちゃったんですよーーー
事の発端は2時間目の授業が終わったときだ。
今回の協力者からこっそり耳打ちされたのがコトの始まりだ。
ーーーいま聞いた話なんですが、体育の授業中に倒れたらしいんですよーーー
誰が・・・?
今更そんなこと聞かずとも、相手の目がキラキラと面白そうに輝いているのを見れば、
答えなど簡単に割り出せる。
答えをはじき出すのは得意だ、なんといっても数学教師だからな。
自分に情報を提供した人物に操られているような気がしないでもないが、
そうはいってもやはり気になった。
そういえば近頃少し塞ぎ込むことがあったような気がする。
何気ない時間と時間の隙間を埋めるように
深いため息をつく彼女の姿が頭をちらついた。
目的の部屋の前に立つと念のため左右を確認する。
・・・誰もいないな。
ノブに手をかけ音も無くドアを開けると、そこは思わず眉を顰めるような
消毒液のにおいに満ち溢れていた。
ここに長時間いたら健康な人でさえ病人になりそうだ・・・
そんなことを思いながらドアを開けたときと同じように
音を立てないようにドアを閉めた。
用心のため鍵も閉めておく。
左手にはベッドが3つあった。
その中の一つは人目を避けるようにカーテンが引かれ、
誰かがそこで寝ていることを示していた。
ジャッとカーテンを荒々しく開けると、大きな瞳を見開き驚いた表情で
ベッドで寝ている彼女の姿がダイブしてきた。
「・・せ・・先生・・・・」
「倒れたんだってな、体育の授業中に」
顔色が悪い。いつもの淡い薄桃色の頬は色褪せ、
その一方で瞳は赤く充血している。
目の下は少し落ち窪んで隈ができ、顔色が全体的に青白い。
見るからに不健康そうな顔色だ。
突然の和久田(わくだ)の登場に慌てて和(なごみ)は身体を起こした。
その動作もいつもに比べれば鈍い。
「う・・・うん。受験勉強を夜中までしていたら体調崩したみたいで・・・
でも寝たら大丈夫だから。ただの睡眠不足だから」
落ちつき無く髪をいじり早口で言いつくろう和をじっと見つめると、
次第に彼女の首がうな垂れてくる。本人はうまくごまかしたつもりのようだが、
生憎と和久田は和のごまかしに騙されるほど素直な性格ではない。
「何を悩んでいる。はっきり言葉で言わんとわからんだろうが」
「な・・やんでなんか、ない・・・」
「嘘つけッ、目が泳いでいるぞ」
少し厳しい視線で睨むと和はびくっと大きく身体を震わせて目を伏せる。
睫毛が震えるように少し痙攣していた。和の悪い癖だ。
自分の立場が悪くなるとすぐに俯いて黙り込む。
黙り込んで俯く和の次の言葉を待っている和久田は、
近くにあったパイプ椅子を引き寄せて座った。
するとちょうど二人の顔が同じぐらいの位置になり、
和の疲れた表情が和久田の視界の大部分を占拠した。
「・・・・・もうすぐ春だね」
「その前に大学入試があるだろうが。大学に合格して春がやってくるんだ」
和久田が腕を組んでそう言うと、和はチラリと横目で和久田を盗み見する。
そしてまた目を伏せ、指先でシーツを玩びながら
そのしわが増えていくのをじっと見ている。
洗い立ての感じはとっくに失われたそれは、
和の手の中でよれよれの波をうっていた。
黙り込んでいた彼女の口が僅かに開いたかと思うと、小さな声が聞こえてきた。
「・・・・あの、ね・・・今度のお休みに由佳と一緒に下宿を探しに行くの」
「なんだ、開田は大学に入ったら一人暮らしするのか?」
いったい何を言うのだろうかと気構えていたらなんてことはない、
彼女の友人の話だった。
倒れるほど悩むことが親友の一人暮らしについてなのか?
友達が自分の元を離れることに一抹の寂しさでも感じているのだろうか・・・。
だが興味なさ気な和久田を見つめる和の目は真剣そのものだ。
「うん。それに・・・私も探さなくっちゃいけないでしょう?」
「は?」
「・・・・先生の家においてもらえるのは高校卒業までの約束だし・・・・」
そこで和久田は和が何を悩んでいるのかに初めて気がついた。
時をさかのぼること1年と数ヶ月前、確かに同居を始めるときに
『高校卒業までは自分の家においてやる』と言ったのは和久田だ。
「おい、牧原・・・」
「だって最初からそういう約束だったし」
そのときは確かにそう言った。
忘れていたわけでも記憶から消していたわけでもない、
しっかりと覚えている。だがそれはあくまであの時点での話だ。
今とあの時とでは状況が違う、霄壤の差がある。
あの時は和と『そういうカンケイ』になるとは露にも思っていなかったし、
そうなる予感さえ感じなかった。だから『高校卒業まで』と言ったにすぎない。
嫌な空気が二人の間に立ち込めていた。
さっきの言葉を最後に和の口は鍵をかちりと閉めてしまったようで
ぎゅっと閉じられ微動だにしない。
和久田は和久田であまりに馬鹿馬鹿しいことを和が言い出したため唖然としていた。
とても本気でそんなことを言っているとは思っていなかったし、思えなかった。
「・・・・で、悩みすぎて寝不足になって昏倒したというわけか」
「・・・・・・」
「馬鹿か、お前」
呆れてものを言うのも億劫になってきた。
和久田は大げさすぎるため息をつき顔を背けて舌打ちした。
くそっ・・・だから女ってのはメンドクサイ・・・。
和といえどもやはり例外ではない。
だが過去に付き合いがあった異性と明らかに違うのは、
今までならめんどくさくなった時点であっさりと自分から手を切ってきたものが、
彼女は切り捨てることができないということだ。
どんなに煩わしくとも見捨てることができないのだ。
「・・・だって」
「だっても何もあるか。まったく・・・
そんなくだらないことで悩むなんて馬鹿にもほどがある・・・」
「くだらなくなんか無い!」
呆れ返っていた和久田の言葉に和の鋭い声が空を切った。
ヒステリック気味な声に眉を寄せたが、
和久田を見つめる目は睨みつけるような厳しいものだった。
「くだらなくなんか、無いよ。先生にはわからないよ。
もうすぐ卒業だなって言われるたびに・・・
先生に出て行けって言われるんじゃないかって
びくびくする気持ちなんか・・・先生にはわからないよ」
「俺が『出て行け』と言うと思ったのか?」
その問いかけにはふるふると頭を振る。
「なら・・・」
「でも『いてもいい』とも言ってくれなかったでしょう?」
今の言葉達から憶測するにどうやら和は
和久田に『出て行け』と言われることに怯えながら、
和久田に限ってそんなこと言うはずが無いという
二つの相反する考えの板ばさみになっていたようだ。
らしいと言ってしまえばそれは和らしいことこの上ない。
だが和久田にしてみれば和のこの思考回路にいらいらする。
なぜ、和久田が『出て行け』と言うと思うのだろうか。
そんなこと言うはずがないのになぜ和はそう思うのだろうか。
和久田が和のことをどんなに大事な存在であると思っていても
それはすべて空回り、当人には一分も届いていないような気さえする。
それは普段は眠っている焦燥感を呼び起こす。神経が癇だち焦りが生じる。
いつもならここで厭味の一つや二つも和に浴びせかけるところだが、
今日の和久田は違った。
彼女は相変わらず自分の手を見つめ俯いている。
時々シーツを玩び無用なしわを作っていた。だから知らなかった、
和久田が不敵な笑顔を浮かべていたことなど全く気がつかなかった。
「・・・・それなら契約更新するか?」
「え?」
「更新だ。今度はそうだな・・・大学卒業まで俺の家の家政婦をする。
それでそうだ?」
ぽかんと口を開けて和久田を見つめる表情が、
まるで熱に溶けるアイスクリームのように徐々にほぐれていく。
青白かった顔色も興奮のためか僅かに桃色を取り戻してきた。
「いいの?」
「構わん。契約更新、するか?」
和久田の言葉に嬉しそうに首を縦に振る和は至って無邪気だ。
一方、和久田の心の中は邪気に満ち溢れていた。
「それなら話は早い。牧原、印鑑持っているか?」
「え?ハンコ?」
そんなもの普段持ち歩くものではない。そして学校に持ってくるものでもない。
ワケが分からず和は今度は首を横に振った。
「契約更新するには契約書にサインと判を押すものだ。
そうだな・・・それなら代印でも構わん」
代印・・・和はぼんやりとした表情で和久田の言葉を復唱したが、
すぐにぎょっとした。
「な・・なんでネクタイ緩めるの!?
・・・って・・・ちょ・・なんでカッターのボタン外すの!?」
パイプ椅子に座った和久田はそんな非難の言葉をもろともせずに、
ネクタイを取りはずすとカッターシャツの上から3番目までのボタンを
外し真っ直ぐに和を見据えた。
もちろん口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
「契約更新するんだろう?印鑑を持っていない牧原サンのために
代印を押してもらおうと思ってな、ココに」
右手の親指でその場所をトントンと二度叩く。
和の顔は先ほどの桃色から今度は真っ赤に変わった。
「ここで!?」
「愚問だな、当たり前だろうが」
和久田の指が叩いた場所、そこは襟が開かれたカッターシャツの間から
垣間見える首筋のあたり。
そこが和久田が和に『代印』させたい場所。
今や和は和久田の意図がはっきりと理解できた。
「どうした、牧原。更新するんだろう?」
ニヤニヤと薄笑いを浮かべる和久田。
顔を真っ赤に火照らせ困ったように両眉を寄せている和。
「今ここで『代印』を押さなければ契約消滅だ。どうする?」
どんなに懇願的な目で見つめられても和久田の意思は覆らない。
どうせ遅かれ早かれ和は堕ちる。
最終的には和久田の要求を呑むに決まっている。
「・・・わかりました・・・・」
今まで身体にかけていた布団を捲って、
のろのろと和久田に近づいてくる和の顔は
困っているようでも怒っているようでもあった。
満足げに顔を緩ませる和久田の肌にそろそろと唇を寄せるその刹那、
決意を決めるように和がぎゅっと両目を閉じた。
肌に伝わる彼女の体温は和久田のものより僅かに熱い。
「・・・んっ・・・」
「もっと強く吸え。そんな調子ではいつまでもたっても印は刻めんぞ」
後頭部をぐっと引き寄せるとくぐもった苦しそうな和の声が聞こえた。
チリリとした痛みにも似た甘美な刺激と
生暖かい彼女の吐息に酔ってしまいそうだった。
「・・・・これでいいでしょうか・・・」
不承不承和久田の言葉に従った和は『代印』を押したあと、
唇を少し尖らせてむすっとした。
そんな彼女をおいて和久田は少し離れたところにあった鏡で
自らに押された『代印』を見た。
少し薄いが確かに存在する印。
「多少薄いがいいだろう。確かに契約更新印をいただきました」
ほっと安堵する和のもとに戻ると和久田は彼女の細い腕をとった。
「え・・・?な・・何・・・!?」
「契約更新完了の受領印をお返しします」
ジャージのファスナーを下ろすと透けるような白い肌が現れた。
今度は和久田が和の肌に『代印』を刻む。
「・・・っ・・・」
痛さのためか羞恥のためか、和の唇から熱のこもった吐息が零れた。
「確かに契約印を受領いたしました」
おどけた口ぶりではあるが和久田の顔はどこまでも大胆不敵な表情だ。
責めるように和久田を睨む和ではあるが頬は真っ赤で、
この短時間に目は涙を帯びて少し恍惚感に酔っている。
自分に押された『受領印』が気になるのか、
その存在を確かめるべく鏡の前に向かった。
その後姿を見つめながら和久田はネクタイを結びなおす。
鏡でその所在を確かめた和は和久田を非難するような視線で睨みつけてきた。
和が怒るのも無理はない。
彼女と違って和久田は跡がくっきり残るように強く吸った。
虫に刺されたようにはっきりと赤い跡がついている。
見る人が見れば明らかにキスマークだと分かる代物だ。
「・・・これ、なかなか消えないよね」
「そうだな。お前は跡が消えにくい体質だから一週間以上残るんじゃないか」
和久田と向かい合うようにベッドに腰掛け、
スリッパをふらふらと揺らせる和に和久田は涼やかに答えた。
和久田に何を言っても無駄だと和も分かっているらしく、
これ以上責める言葉や非難するような視線を送るのをやめた。
諦めたというよりは呆れ果てているのかもしれない。
「わ・・!」
「寝ろ。寝不足で目の下に隈ができているぞ」
肩を押し、無理やり和をベッドに寝かせると和久田は乱暴に布団をかけた。
「うん・・・」
素直に頷き、布団を顎の辺りまで持ちあげると和は和久田を見上げた。
「今のうちによく寝てろ。今晩はまともに寝れそうにないからな」
「は・・・?」
不思議顔の和に背を向けてパイプ椅子を元の位置に戻すと、
ベッドに寝ている彼女に笑いかけた。
その笑いはおよそ和久田らしくない実に清々しいもので、
笑いかけられた和はその不自然さにかえってフキツな予感を感じるくらいだった。
そしてそれは的中した。
「馬鹿なことを考えた阿呆には二度とそんなことを思いつかないように
その身に教えこんでやる。
なに、一晩マンツーマンで教えればそんなこと二度と思わなくなるだろう。
なんといっても俺は教師だからな、人にモノを教えるのは得意だ。
そのためにも今はここでせいぜい養生してろ」
来たときと同じようにジャッとカーテンを荒々しく閉めると、
和久田は保健室を後にした。


コツコツコツ・・・
静かな廊下に靴音がただただ響く。和久田は少なからず腹が立っていた。
まさか和が「出て行く」ことを考えていたなんて思いもしなかったからだ。
くそっ・・・牧原のヤツ・・・!!
可愛さ余って憎さ百倍、そんなしみったれた言葉が頭に浮かんだ。
この状況下で和久田が『出て行け』と言うと思う和の思考が
なんとも小憎らしく思えた。
だからあんな『契約更新』などと馬鹿げた茶番劇を演じたのだ。
少しは困らせてやらなくてはこちらの気が収まらない。
「・・・・・・」
また4年後に同じような茶番劇を演じなくてはならないのだろうか・・・・。
立ち止まって和久田は顔を顰めた。
間違いなく4年後に同じような事態が起こるだろう。
和はそういう性格だ。どこまでも自分に自信がなく、
そのために疑心暗鬼に陥りやすい。
毎度毎度こんな馬鹿げた芝居をしなくてはならないのか?
冗談ではない!
窓の外には枯れた木々が見えた。
北風が吹いているのだろうか、
寒そうに細い小枝を震わせている。
だがその枝には凍える風にも負けない
小さな小さな春の息吹が息づいていた。
「・・・・・・・」
うっすらと口元が緩む。
そうだ、四年後にはサインと印鑑を押させよう。
そうすればこんな茶番劇を二度と演じなくていい。
「・・・・そうだな」
窓の外の木々に目をやりながら一人ごちた。
四年度には『婚姻届』という名の契約書で契約更新するか・・・・。


もうすぐ春がやってくる。




季節感ゼロ。2005年、夏
【Vivid Colors】 多賀沙柚 様より
暑中見舞いと相互リンクお礼に頂きました。
2005.07.30
【Vivid Colors】 多賀沙柚 様へは、
Giftメニューのサイト名とLink Siteにリンクがあります。
素敵な作品に出会えます。是非どうぞvv