Zugzwang
窓の下の道路を荷物を大儀そうに抱えたが歩いて、
彼女の自宅へと入るのが見えた。
あまり物欲が激しくないのに、あれだけ大量の荷物と言うのも珍しい。
何をいったいあれだけ買い込んだのだろう。
少なくても数軒分のショッパーがあったように思う。
僕や鷹介が何も言わなくても、そのうちから話はあるだろうと、
彼女のうれしそうな顔を思い浮かべた。
あれだけ買い込んで来たものが洋服だったらデートで着て見せるだろう。
男には直接言えない様な買い物でも、結局は見ることになると思うし、
雑貨ならの部屋に行けば分かる。
けれども、数日過ぎても何もない。
新しい洋服を着て見せもしないし、目新しいものが増えた様子もない。
もし隠しているとしても、僕や鷹介に関係するものではなかったようだ。
あれほどのものを買ったのに、が黙っているのはどうしてだろう。
家族や誰かへのプレゼントなら、相談があってもいいのに。
普段ののことを思うと、たかが買い物した事におわるのだが、
まだ、祐樹君の死から時間が経っていないから気になっていた。
僕や鷹介ももちろん祐樹君の死はショックだったし、悲しい。
けれど、の受けたショックや悲しみは僕たち以上だと思う。
祐樹君との関係は、女神とその崇拝者とでも言えばいいだろうか。
誰にも犯されないような神聖なものに感じていた。
僕と鷹介以外にが心を砕く男が現れたのは、正直に言って面白くはなかった。
けれど、男と女ではない関係だと、嫉妬するのも難しい。
も僕たちに隠すどころか、紹介してくれたりしたから、
さらに僕たちは2人を見守るしか出来なかった。
死の前では人はみな平等だ。
生きとし生けるものには、平等に与えられる。
だけど、十分に未来がある人が、その可能性のある生を
奪われるのを見るのは切ないし、苦しい。
祐樹君の死は、まさにそれだった。
それを一番感じているだろうが、ショッピングと言うのもしっくりこない。
その週末、少しでも元気付けようと3人でドライブに出た。
が海を見に行きたいと言うから、そのように進路を取る。
買い物へと出かけたくらいだから少しは元気なのかと、様子を伺ってみる。
けれど、助手席の彼女は祐樹君を失った悲しみからは、
立ち直ったようには見えない。
少しでも癒されるようにと、モーツァルトのCDを流して
無理をしないスピードで車を流す。
今日のの服装はといえば、全身が黒系のものばかりだ。
素材の違いやグレーも混じっているから、真っ黒というわけではないし、
もちろんシンプルだしセンスがいいからとてもおしゃれに見える。
だが、僕たちには喪に服している事は分かる。
色よりも僕が気になったのは、服の形そのものだ。
最近の流行なのだろうが、女の子はみんな下着かと思うような
キャミソールやワンピースを着ている。
男の目から見るとうれしい限りだけれど、
そんなに薄着で大丈夫かと思ってみてしまうほどだ。
だって透けて見えるほどではないにしろ、
薄い布で出来た洋服を着ていたように思う。
でも、今日のは違った。
「、今日は今までとは違うファッションだね。
色は祐樹君への喪のしるしだからだろうけれど、
そういう洋服は今まであまり着なかっただろ?」
湾岸に出た車の車窓は、工業地帯とはいえ既に海が近い事を物語っていた。
それらに目をやって、景色をぼんやりと眺めていたが、
僕の呼びかけにこちらを向いた。
「うん、今までは多少寒くてもスタイル重視の洋服を選んでいたの。
でも、それじゃ駄目だって分かったから、変えていこうと思って。」
何か考えがあっての事なのだろうと、僕はその原因を探す。
後ろに座っていた鷹介も椅子につかまって前に乗り出した。
「それじゃ駄目って、どう駄目なのさ。
今までの服だって悪くなかったぜ。
とってもらしかったし、似合ってたもんな・・・・なぁ?」
俺に同意が求められて「あぁ。」と頷いておいた。
確かに時々寒くはないかと心配する事はあったが、
にとてもよく似合う服を着ていたことは事実だ。
「ありがと。
でもね、本当は普段から身体を冷やす事はよくないんだって。
血行が悪くなって手足が冷えるでしょ。
ただでさえ女性の身体は冷えやすいって言うから、気をつけようと思って。」
「ふーん、まあそりゃ、健康にはいいだろうね。
でも、また急にどうしたの?
今まではそんな事口にした事なかっただろ。」
鷹介の言葉にはひざの上で組んだ手を見た。
「身体が冷えているとね、受精卵が着床しにくかったり、
着床してもちゃんと育たなくて流産したりする原因になるそうなの。
妊娠したからと言ってすぐに身体を温めようとしても、それは出来ない事で、
普段から気をつけないと駄目だって聞いたの。
タバコは吸わないけれど、吸っている人はニコチンが体から抜けきるのに
3年もかかるって言うし。
時間がかかる事なら早めに対応しておこうと思って・・・。」
の言葉に俺と鷹介は言葉が返せなかった。
「今、妊娠してるわけじゃないからね。
誤解しないで欲しいの。
でも、授かったときの為に、準備だけはしておこうと思って。」
カーステレオから流れているモーツァルトの音に消されるくらい小さな声で、
が説明を加えた。
「祐樹君のためかい?
それで、買い物に出て色々買い込んできたわけだ。」
僕の問いに、はコクンと頷いた。
「まったく、アイツは何処までも俺たちを妬かせるよな。」
ドカッとリア・シートにもたれ直した鷹介が、笑いを含んでそうつぶやいた。
「まったくだな。」
僕はその言葉に同意して、前の車のリアを見ながらクスリと笑った。
「ごめんなさい。
そんなつもりじゃないんだけど。」
申し訳なさそうにうつむいてしまったに、
鷹介が「冗談だから、大丈夫だよ。」と軽そうに笑いかける。
「ありがとう。」と鷹介に答えながら、が僕の様子を伺う。
「ん、無駄な嫉妬だから気にしなくてもいいさ。」と、
の手に僕の手を重ねて、包み込んでやった。
いつもは冷たい感触の手が、今日は冷たくはない程度に熱を持っている。
まだ、悲しみに心は涙で濡れているだろうに、
その温もりにはほっとさせられる。
少なくとも前向きに何かを始めた事で、祐樹君の死も乗り越えてくれるだろう。
バックミラーの中の鷹介と目があった。
僕の視線に気が付いて、鷹介もほっとしたように微笑んで頷いている。
僕と鷹介がにとって一番身近で愛している男だと知っている。
僕たちも同じだからだ。
幼い頃からお互いがそうだった。
祐樹君へはそういう類の愛情を抱いているのではないと分かっている。
それは一種の母性愛のようなものかもしれない。
男への愛情と子供への愛情とは、微妙だが違うものだ。
身を焦がすような嫉妬をしても、僕と鷹介にはどうしようもない。
それに、相手は既に試合を放棄してしまっている。
どんな事をしても僕らに勝ち目はないのだ。
昔から言うだろう、「父の愛は山よりも高く、母の愛は海よりも深し」って。
山の代表がエベレストでその標高が8844.43メートル。
海は1万メートル以上の深さが存在していると言われている。
祐樹君に対しての気持ちが母性なら、張り合うだけ無駄だ。
それに、が大事にしようとしている、
いつの日にか授かるはずの祐樹君の生まれ変わりは、
僕たちの子供でもあるだから。
※Zugzwang(=ツーク・ツワング)
強制被動。駒を巧みに動かされ、どんな手を選んでも負けになる状態になる事。
またはその状態。
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2005.12.28up
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