花祭り




「これに記入して置いてくれ。」
仕事へ出る前に不意に渡された茶封筒に入った書類。マンションの賃貸更新契約か何かの書類だろうと思った。
もうここに一緒に住んでずいぶんになる。
あれは3年前の彼のアパートの契約更新が切欠だった。
「もう、そんなに経つんだ。」
彼が出かけて私以外に居なくなった部屋に、ポツリと独り言が落ちた。
彼は、商社のサラリーマン。
私は、同じ商社に勤めていたけれど、今は自宅でビーズ手芸を作ってそれをネットで販売している。
最初は、趣味で始めたビーズ手芸だったけれど、いつの間にかかなりの腕前になり、師事していた先生の薦めもあってお店を開いた。
けれど、リアルでお店を持つのは大変だし、お金もかかる。そこで考え出したのが、ネットショップ。これなら投資も少なく済むし、在宅で仕事が出来る。



ちょうどその時期に、彼が住んでいるアパートの契約更新が来て、引っ越そうと言う話が出た。
それなら、これを機に一緒に住もうという話になって、私のアトリエが持てるこのマンションに2人で住むことにした。
彼は、私の仕事にもすごく理解を示してくれて、応援してくれている。
たまに仕事で出向く大陸でのお土産は、現地でしか手に入らないビーズだったりするし、男物のブレスレットやチョーカーなどの試着モデルもやってくれる。
先の約束は何もしていないけれど、とても充実した毎日だと思っている。



朝食の後片付けを済ませ、洗濯と掃除を軽く済ませて、私は自分のアトリエにこもる。
先ずはPCを立ち上げて、注文の有無の確認。
注文があれば、それへの返信を書き商品の梱包や宛名書きをして発送の準備だ。
何もない日は、商品の製作。
同じ作品は5点だけ制作することにしている。
一人での作業だと言うことと、色違いなども作るから限界があるのだ。
一人でこつこつとやっている。
OL時代のお給料から比べると、そこそこ取れていて生活には困らない。
それに、何よりやりがいがある。
だから、出来ればこのままの生活を続けたい。
彼がどう思っているかは知らないけれど、こうしてマンションの更新書類を書けと言うのだもの、きっと2人の関係も気持ちも続いていると思う。



そう考えて、茶封筒の中身をテーブルの上に出してみた。
「・・・なに、これ。」
薄い紙を広げてみれば、なんと婚姻届。
ドラマで見るのは離婚届が多いから、茶色の枠線や縁取りに見慣れない違和感を覚える。
もう一度確認して、そう言えば離婚は結婚した人たちしか出来ないのだから、今の自分には関係なかったと、思い直して笑ってしまった。
だけど、いくら一緒に住んで3年も経った女とはいえ、婚姻届を渡すのにプロポーズもないなんて・・・。
あまりと言えばあまりな仕打ち。
彼が本気で自分と結婚しようとしていることは、とてもうれしい。
けれども、プロポーズから指輪からみんな端折られてしまっているのは、女としてとても悲しかったりする。
家事だけでなく、夜の相手の勤めてくれる都合のいい家政婦のように考えられているのじゃないかと、不安になる。
さっきまで思っていた幸福感がなくなってしまった。
もちろん用紙に記入などできるはずもなく、そのまま封筒に片付けてリビングのサイドボードの上に。
引き出しに入れてしまうのは憚られたから。
彼が帰ってきたら話し合おうと思ってのこと。



普段どおりにと、言い聞かせて夕食とお風呂の準備をして待つ。
定時とまでは行かなかったらしいけれど、それでもいつもよりも帰宅が早かった。
彼だって気にしてはいるんだと、少し気持ちが上向く。
夕食が終わって、入浴後の缶ビールを手にした彼が、ボードの上の茶封筒に気づいてそれを手にして中身を確認した。
「あれ?書いておいてくれなかったのか?」
決してとがめるような口調ではなかったけれど、不信感いっぱいな様子で尋ねてきた。
答えたら、彼を非難する言葉が出てきそうだから、何も言わないでうつむいてしまった。
「プロポーズもされていないのに、どうして結婚できるのよ。」
フローリングの木目を見ながら、ポツリとつぶやいてみる。
「あぁ、そうか。
ごめんな、そんなつもりじゃなかったはずなのに。俺としたことが他の事に気を取られていて、一番最初にしなくちゃならない、一番大事なことを忘れていたよ。」
後頭部に手をやって、その手で自分をバシバシと何度か叩いて、彼はため息を吐きながら苦りきる。
「ちょっと待ってて。」
このマンションで私に何か隠すことなんて出来ないはずなのに、それでも彼が手にして戻ってきた包みには、見覚えがなかった。



「さあ、手を出して。」
胸元で両手を握り締めて彼の申し出に躊躇する。
「頼むから・・・。」
悲しそうな顔でそう懇願されてしまうと、どうにも弱い。
恐る恐る左手を彼の前に差し出す。
リボンが解かれて、淡い水色の包装紙が箱から離れて床に落ちた。
箱も水色。
彼は、さらにその中のビロードの小箱のふたを、無造作に開いて白金に輝くリングをつまみ出した。
それを私の左手薬指にはめてくれた。
「リングのサイズは?」
彼が触れた事がない場所などない身体だけれど、リングサイズなんてあえて言ったことはなかったはず。
「試作品作るとき、自分のサイズで作っているだろ?
それをひとつ借用して、探してきた。
ちなみにそれ、返品不可だから。
もちろん断らないよな?」
そう問われた時には、私は涙でぐしょぐしょになっていて、言葉では答えられなかった。
そんな私に、彼は腕を広げてくれた。
飛び込んでおいでって・・・。



今日一日、色々と悩んでいたのに、それを全て吹き飛ばしてくれた。
そんな彼の腕の中へ、私は何もためらわずに飛び込んで、あまりの勢いに彼が後ろにあったソファへと倒れこむほどだ。
「あっ、危ないだろ。気をつけなきゃ駄目じゃないか。」
「ごめんなさい。痛かったの?」
「俺は大丈夫。危ないのはお前だって。
おなかの子供に何かあったらどうするんだ。
安定期って言うのか、それになるまでは流産の危険性が高いんだろ?
大事にしなきゃな。」
「えっ?」
「お前、自分は気づいてないのか?
そうか、まだか。多分な妊娠してる。
もちろん俺たちの子だ。ここの所だるくて微熱がないか?
それに月のもの遅れているだろ?」
思い当たる節もあって質問に頷く。
「ある夜を境に、お前の体温が少し上がって、お前の中も少し感じが変わった。
で、注意してみていると、だるそうだしな。
これはひょっとしたらと思って、届けとか指輪とか用意したんだ。
いい機会だから、籍入れて夫婦になって、子供を迎えてやろうって。」
「うん、ありがと。」
目の前の胸に甘えてもたれる。
包んでくれる腕に少し力が加わった。




※花祭り
四月八日の釈迦(しやか)の誕生日に修する灌仏会(かんぶつえ)の通称。

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2006.04.16up