重 陽




喧嘩した。
もう何が最初の切欠だったかなんて忘れたくらい些細な事で。
それも2人とも意地を張り合って、大事になった。
こんな事言っちゃいけないのに・・・・とか思うような言葉が、次々に私の口から飛び出して行った。
もう、自分じゃ止めようがなくなっている事は、自覚があった。
お互いに相手の悪口や普段思っているけれど口にしない些細な事まで、怒鳴るように、吐き捨てるように口にした後の沈黙で、彼は深くため息を吐いた。
「俺たち、少し離れて時間を持とう。」
彼の口から放たれた言葉は、熱くなっていた私の身体を極寒の地に居るように
冷たく凍らせるには十分な威力があった。
固まった身体を何とか動かして、私は静かに頷いた。
今思えば、馬鹿な事をしたと思う。
けれども、そのときは意地もあった。
そんな事は嫌だと口にするには、その前の喧嘩があまりにも激しすぎた。



そして、すぐに夏休みに入った。
私の郷里と彼の郷里は、離れている。
会いに行こうとすると結構な旅行になる。
だから、去年の夏休みには、お互いバイトと称して帰省しなかった。
暑いアスファルトのジャングルで、2人して夏をすごした。
言い訳に使ったバイトもしたけれど、夜は2人で過ごした。
けれども、今年の夏休みの計画を立てる前にあの喧嘩があったから、何の計画もしていない。
その話を切欠にして仲直りをしようと思った。
それまでお役御免状態になっていた携帯を取り出してかけてみた。
留守電につながった。
何を言い残せばいいのか分からなくて、そのまま無言で通話を切った。
着信は残っているはずなのに、彼からの電話は無かった。
だから、私は親に請われるままに郷里に帰った。



帰省すれば、高校時代の友人との付き合いも臨時で復活して、こうして出かけるし楽しい時間もある。
今夜だって、花火大会を見に行った帰りだ。
けれど、友人と別れて1人で家に向かう道で、彼のことを思い出したら無性に寂しくなった。
ネオンに邪魔されない夜空の星を見上げる。
「私たちもう駄目なのかな。
ねえ、寂しくないの?」
彼の郷里がある北の方へ向かって、そうつぶやいてみる。
宝石箱をひっくり返したような星空は、私の言葉を飲み込んだまま何も語らない。
喧嘩した時もその後だって泣かなかったのに、こんな泣かなくてもいいような時には、涙が出てくる。
まだ、彼のことこんなに好きなのに、何ですぐに謝らなかったんだろう?
普段、温厚で優しい彼があれだけ怒ったのに、どうして私は彼の心の痛みを無視してしまったんだろう?
グルグルと考えるのはそんな事ばかり。



お盆や夏祭りも気乗りしないままにやり過ごした。
去年と比べたら、行事的には凄い充実したものになった。
それこそ、夏の行事は総なめ。
けれど、楽しさは去年の夏に比べて、半分にも満たない。
彼との夏は、浴衣もお盆も無かったし、花火はテレビで見ただけだ。
けれども、とっても楽しくて心に残っている。
コンビニのカキ氷でさえ、彼と一緒なら美味しかった。

帰ろう。

そう思い立って、帰り支度を始めた。
「ゼミの資料がないから、こっちじゃレポートが書けない。」と、突然言い出した私に、母はクスクスと笑った。
「何?」
「何って、やっと何とかしようと言う気になったんだなぁって思ったの。
あんた、帰ってきてからずっと沈みっぱなしだったから。
お父さんなんて、酒の相手もしてくれないって、寂しがってたよ。
何が原因かはだいたい予想が付くけれど、まだ何とかしようとか、やり直そうという気持ちがあるんだったら大丈夫だから、その気持ちを忘れないで頑張りなさい。今度は、その彼氏も連れて帰ってらっしゃいね。」
「お母さん。」
娘をそんな目で見てくれていた両親に、目頭が熱くなる。



「ほら、そんな顔しないで。可愛い顔が台無しよ。今夜くらいは、お父さんにお酌でもしてあげてね。
黙っているけれど、親なんて子供に甘えられるのが嬉しいんだから。」
「ごめんね。」
「馬鹿ね。意地張ってないで、素直にならないと損するわよ。
お前はいっつもそうなんだから。
此処は負けられない・・・ってそう思うような時こそ、意地を張らずに素直になるように努力しなきゃ。
男の人はね、他の事で意地を張る女は嫌いじゃないと思うのよ。
でも、自分には素直になって欲しいなって思うものなの。
自分にまで意地張って突っ張られたんじゃ、悲しいじゃない。
他では意地を張っている女でも、俺の腕の中に居る時は、素直で可愛い女なんだ・・・そういう特別意識が、男のプライドを刺激するもんなのよ。」
母はそう言って笑ってウィンクを飛ばす。
「ふ〜ん、お母さんも?」
「え?まあね。結婚する時ね、叔父さんの1人がはなむけに言ってくれた言葉あるの。
『男は綺麗な女には、とげも毒もあるって知っているって。だから、近づく時には用心するし、気を許さないものだって。何より、老いれば価値がなくなるものだって。でも、可愛い女は顔だけじゃない。
可愛いというのは、姿かたちも言うけれど、性格的なものも含まれている事が多いから、老いてもその思いは変わらない。何より、男は可愛い女に癒されるものだって。
だから、綺麗で美人な女房になるよりも、可愛い女房になってやれって。』
そう言われたのよ。
だから、あんたも彼氏には可愛い女だと思われるように、ね。」
「へぇ〜。」もっともだと思いながら、相槌を打った。



「これ、使うといいわ。」
母が差し出してくれたのは、香る水の小瓶。
「香りを変えると、違う自分になったような気がするでしょ?」
「ありがとう。」
ヒラヒラと手を振って、母は部屋から出て行った。
手の中に残った小瓶のふたを取って、手首に吹き付けてみた。
両手を何度かこすり合わせて熱を持たせ、アルコールを飛ばす。
少し遠巻きに香りを嗅ぐと、みずみずしく透明感のある花々の香りが、私の鼻腔をくすぐる。
華やかなのに、どこか落ち着いたものも感じられて、好きだと感じた。
私に似合うだろうか?
今までは、シトラス系の爽やかな香りを好んできたから、こういうシアー系のは初めてだ。
母が言うとおりに、気分一新できるような気がする。



その昔、重陽の節句には「菊綿」と言う行事が行われていたらしい。
「菊綿」は、「菊のきせ綿」とも言って、前の日の八日のうちに菊の花の上に真綿をかぶせておき、翌九日の朝、菊の露でぬれたその綿で肌をなでれれば、若さを保つことができるといわれて、宮中などでは女官たちが競って、その香る水を身体に着けていたという。
別に、彼に会う日をこの日に決めていたわけではないけれど、たまたま今日になった。
母がくれたこれは、菊の香りの水ではないけれど、故事に習って、私も香る水を身体に着けてみようかと思った。
邪気をはらって、素直な私になるために。




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2005.09.03up