この幸せを君に



機内アナウンスを聞きながら、私は腕時計の針を7時間巻き戻した。
本当なら時差は8時間だけど、今は夏時間だからこれで良いんだよね? 
少々不安になりながらも、フランス時間に変更された時計を何度も確認する。 
成田空港を飛び立ったエールフランス機の中。
私は瞳を閉じて深く深呼吸をし、先ほどから興奮気味の胸の内を落ち着かせようと努力した。
あと1時間……。
いや、実際にはもう少しかかってしまうかな? 
入国審査やスーツケースが出てくるのを待つ時間も必要だし……。
でも、あと1時間でこの機材は着陸する。
フランス、パリ郊外のシャルル=ド=ゴール空港に。
――愛しい人が待つ、その場所に……。



年が明けた時だった。彼から連絡があったのは。
――1度、パリに来てみないか? と。
彼というのは、別にお付き合いしている彼氏のことではない。
私の幼馴染で、現在仕事の関係でパリに住んでいる人のこと。
彼と私は家が隣同士で、生まれた年が同じ。
生まれた月は2ヶ月違うだけで、小さな頃からずっとずっと一緒だった。
それこそ幼稚園から大学まで、ずっとずっと。
さすがに就職先まで同じというわけにはいかず、社会人になってはじめて、彼とは別の世界に私は足を踏み入れることになる。
彼のいない世界などはじめてで。本当にうまくやっていけるのだろうかと、私はただただ不安に駆られていた。それ程私の中の彼の存在は大きなものだった。
けれどそんな心配も実際には杞憂で終わり、社会人になってこの2年間、時には失敗も重ねながら、なんとか今日までやってきた。
そして私たちがお互い社会人になって1年後、
彼がパリ支店での勤務を命じられたことによって、私たちの間の距離は更に長くなってしまったのだ。
パリへと発って行った彼が帰国する事は1度もなく、私たちはその間、メールでのやり取りだけで、かろうじてつながりを保っていた。
けれどそれさえも頻繁にではなく、せいぜい週に2回ほどのやりとり。
そんな関係に変わってから半年と少し経ったある日。それは年明けのこと。
彼から届いた1通のメールに記されてあった言葉に、私は思わず飛び跳ねた。



――1度、パリに来てみないか? 
5月のゴールデンウィークの時期なら僕も休みが取れそうだから。
それを読んだ私がすぐさまパリ行きを決めたことは、言うまでもない。
だって、幼い頃から恋焦がれていた人からの、そんな誘いを断るほど私は愚かじゃない。
まだまだ新人なのに幸い休みをもらえた私は、ゴールデンウィークを挟んで10日間の予定で、彼の待つパリへとやって来た。



無事入国審査を済ませ、ターンテーブルでスーツケースを受け取り、外に出る。
「絵美!」
自動の扉が開いた瞬間耳に飛び込んできたのは、愛しい人の、相変わらず耳に心地の良い声。声のした方を向けば、約2年もの間会っていなかった愛しい人の、変わらない笑顔が目に飛び込んできた。
「勇ちゃん!」
10日分の着替えを詰め込んだ大きなスーツケース。
こちらに近づいてきた彼は、それに手をかけ僕が持つよと声を掛けてくれる。
そんな優しさも2年前のまんま。全てがそのまんま。私の中の勇ちゃんそのまんまであった。



私たちの関係は世間一般でいう幼馴染。
ただそれだけで、それ以上でも以下でもない。
進学先は大学までずっと同じだったけれど、恋人同士という仲に発展することは決してなかった。
よく周りからは付き合っていると誤解はされたものの、実際にはそうではなかった。
だって、私たちはお互いに「好き」だとかそういう言葉を口にしたこともなかったし。
手をつないで歩くことはあったけれど、それこそ小さな頃から一緒に過ごしてきた仲だから、今更という感じで。私たちにとっては特別なことではなかったはず。
唇に触れるだけの軽いキスも、何度か交わしたことはあったけど、多分それは勇ちゃんからすれば、ただのスキンシップなんだと思う。
とにかく私が一方的に想いを寄せているだけで、
彼は私に特別な感情なんて抱いていないかもしれないし。
でも私はそれでも良かった。とにかく彼の側で、彼のぬくもりを感じることさえ出来ていれば。
勇ちゃんは穏やかな優しい雰囲気を持った人。
そんな彼の側にいるだけで何だかほっとする。
お互い無言で特に話題がなくても、ちっとも息苦しくなんかなくて、言うなれば空気みたいな存在。
私は多分、物心ついた時からそんな勇ちゃんに恋心を抱いていたんだと思う。
でもその想いを告げることによって、居心地の良い関係が壊れてしまうのが恐くて。
彼の側にいられなくなるのが恐くて。
だから気持ちを告げないまま、この24年間過ごしてきた。



「とにかくホテルに行こうか」
勇ちゃんが住んでいる場所に近いホテルを、彼が予約してくれているということで、私自身が日本で準備したのは航空券の手配のみ。
彼は私が渡仏するのに合わせて、休暇を取ったらしい。
「そんなに長く休めるものなの?」
そう心配する私に勇ちゃんは相変わらず穏やかな笑みを浮かべ、心配ないよと頭を撫でてくる。
ホテルまで走っているリムジンバスに乗り込み、私は窓からの景色を眺めていた。
「ちょうど夕方だからラッシュアワーに巻きこまれたね」
市内中心部へと近づくにつれ、バスの動きが鈍くなる。
空港を出て約1時間半で宿泊先のホテルに到着。早い時などは、50分もかからないそうだ。
チェックイン手続きを済ませ部屋へと足を運ぶ。
しばらくすると、ポーターが荷物を運んできてくれた。
「どうする? 疲れてるなら今日はもう休む? それとも夕食を食べに行く?」
勇ちゃんの出した選択肢の中から、私は前者を選ぶ。
「実はパリに来る前、興奮しちゃってろくに睡眠とってないんだ。飛行機の中でも全然寝てないし」
今日はゆっくり休むから、明日から色んな所に連れて行って。
と頼んでみる。
「分かった。じゃあ、シャワー浴びてすぐに寝なよ」
勇ちゃんは苦笑を浮かべながらそう言うと、明日迎えに来てくれる時間を告げて帰って行った。
――別にこのままここに泊まってくれても良かったのに……。
律儀で真面目な彼の性格を少し恨みつつ、私はシャワーを浴びた後、すぐに眠りについた。
明日から始まる、たった8日間の勇ちゃんとのパリでの生活を夢見ながら。



翌朝。ホテルのレストランでブッフェの朝食を頂く。
クロワッサンなど数種類あるパンがどれも美味しくて、ついつい食べ過ぎてしまう。
その後、ロビーで勇ちゃんと落ち合いホテルを後にした。
「今日はメーデーなんだよね」
ホテルを出てすぐに、勇ちゃんがポツリと呟いた。
「あっ、そっか。5月1日だもんね。今日」私もそれを思い出し、相槌を打つ。
「日本にいると、僕たちにはほとんど関係のない日なんだけど、外国は違うんだ。
ここでもデモ行進があって交通機関は規制されるし、全てじゃないけどほとんどのお店も閉まるからね」
「へえ。じゃあ大変な時に来ちゃったってこと?」
それならこの日をずらせば良かったかな、と少し後悔する私。
けれど勇ちゃんは、問題ないよ。と一蹴する。
主だった観光箇所は開いているし、パリの中心部は交通機関を使わなくても、歩いて移動することは十分可能なのだと言う。
「エッフェル塔なんかの有名な所は人でいっぱいだから、今日行かなくても良いよね? まだ日はあるんだし」
だから今日は、市内をゆっくり歩きながらのんびり過ごそう。
そんな彼の提案通り、私たちはその日散歩をしながら過ごしていた。



勇ちゃんの説明を色々と聞きながら街中を歩いていると、至る所で人が叫んでいるのに気付く。
どうやら「ミュゲ! ミュゲ!」と声をあげているのだ。
それにみんな何かを手にして叫んでいる。何だろう? 花?
私が不思議に思って尋ねると、勇ちゃんはその人たちの1人に近づいて行った。
そして財布からユーロ紙幣を取り出し、その花を代わりに受け取る彼。
彼は私の元に戻ってくると、先ほど購入した花を手渡してくれた。
その白くかわいらしい花はもしかして……。
「鈴蘭?」
そう。当たり。5月1日は、フランスやイギリスでは鈴蘭の日なんだって。
今日だけは、誰でも許可無しに道端で鈴蘭を売っても良いらしくってね。
だからあんなにたくさんの人が鈴蘭を売ってるんだよ」
「へー。そんな日があるんだね」
「うん。それで、親しい人同士で鈴蘭を贈るんだって」
そうなんだ。と言葉を返し、私は鈴蘭を鼻先に近づける
「気を付けてね。鈴蘭はこう見えても毒があるからね」
勇ちゃんは物知りだ。
男性で花に詳しい人なんて、少なくても私の周りには、他にいないんだから。



その日の夜の食事は、中華料理を食べることにした。
ほとんどのお店やレストランは閉まっているけれど、アジア系やアラブ系のお店の中には、開いているところもあるみたい。
どうやら宗教の違いも関係しているみたいだ。
食事をした後は、タクシーで勇ちゃんの住むアパルトマンへ。
私がどんな所なのか見てみたいと言ったのだ。
「日本で言う、ワンルームみたいなものだよ。すごく狭いからね」
そう言いおいて、勇ちゃんは建物の前で暗証番号を押す。
入り口はオートロックだったけれど、各部屋の扉もオートロックのようだ。
「玄関のドアもオートロックなんだ」
私は感心しながら、部屋の中へと足を踏み入れた。
小さなキッチンにバスルーム。
そして部屋が1つ。
部屋の中は、余計なものは一切ないと言っても良いぐらい殺風景だ。
ベッドにテレビにデスク。本棚さえない部屋の床に、直接積み重ねられた本たち。
窓際に勇ちゃんから贈られた鈴蘭の鉢を置きながら、ふと思う。
――この部屋に、女性を招き入れることはあるんだろうか……。
ふとそんな心配が胸をよぎったせいで、私はつい尋ねてしまった。
「私がこの部屋に来ても良かった? 彼女に怒られないの?」と……。
「……彼女って?」
私の問いに、勇ちゃんが不可解な表情で逆に聞き返してくる。
「あの、だから、もし彼女がいるのに、私が部屋に入ると悪かったかなって……」
しどろもどろになりながら、私は説明をする。
せっかくのパリでの夜が、何だか台無しになっちゃったかも。
そんな後悔をし始めた私に、勇ちゃんの口から思いもかけない言葉が飛び出した。
「あのね、僕は絵美の彼氏のつもりだったんだけど。絵美にとっては違うの?」



「えっ? えっと、でも、付き合おうかって言ってもらったことなんてないよ?」
勇ちゃんからの爆弾発言に、私の頭の中は真っ白だ。
「あー。僕たちは小さな頃からずっとずっと一緒で、それが当然だったから、今更確認しなくてもお互い気持ちは通じ合ってると思ってたんだ……」
そんな……。じゃあ、私たちは両想いだったってことなの?
「僕はこの先、一生絵美の側にいるつもりだよ? 
ずっとずっと今まで一緒だったんだから。絵美は違うの? 
それに、好きでもない子にキスなんてしないよ」
彼は私を抱きしめて、髪を優しく撫でながらそんな殺し文句を口にする。
「ごめんね。ちゃんと言葉にして伝えておけば良かったね」
この失敗が原因で、もう少しで絵美を他の男に取られてしまう可能性があったわけだから。
と彼は付け加える。
「そんな可能性なんかないよ。私だって、勇ちゃんの側にいたい」
その私の言葉を受けて、彼は私に口づけを落とす。今までのものと変わらない優しい優しい口づけを。
そんな私たちの側で、窓際の鈴蘭がかすかに揺れていた。



「今日お互いの気持ちを確認出来たのは、この鈴蘭のお陰かな」
私を抱きしめたまま、彼が窓際に顔を向ける。
「5月1日に鈴蘭を贈ると、贈る側にも贈られる側にも幸せが訪れるんだって。
鈴蘭の花言葉はね、幸福の訪れ、なんだ」



――僕はこの先毎年5月1日には、鈴蘭を絵美に贈ろう。僕たちの幸せが永
遠に続くように……。



そんなささやきを聞きながら、私は彼の腕の中で、その日幸せな眠りについた。 



Copyright c Mahiro Fujikura All Rights Reserved.



相互リンク記念に、砥子さんに素敵なバナーを作って頂いたお礼です。
砥子さんのサイト名『グラビュール』というフランス語や、『ブランコが記念品?』
の倉田君がフランス人のクウォーターということから、フランスに思い入れや
御縁があるのかな? と勝手に想像して、このお話しを書かせて頂きました。
季節外れもいいところですが、『かぼんや』さんにはお花の素材が多いので、
これも勝手に花絡みにしようと思い立ち(笑)
駄文でございますが、どうぞお納め下さいませ。
これからも宜しくお願い致します。                 2006.10.21.藤倉。


【『藤倉まひろの著書』】 藤倉まひろ 様よりの賜り物です。
私が押し付けた拙いバナーのお礼に頂きました。ありがとうございました。

【『藤倉まひろの著書』】 藤倉まひろ 様へは、
Giftメニューのサイト名とLink Siteにリンクがあります。
素敵な作品に出会えます。是非どうぞvv